安保法案と報道規制

猛暑が続く中、今月で終戦から70年を迎えました。

長崎原爆の日に、長崎市長も平和宣言の中で、安保法案に対し危機感をもったコメントをしていました。

今後の日本の安全にとって非常に重要なことなので、以下の文章は、「読用薬」の「雑感、その他」にも掲載しました。

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7月16日、安保法案が衆議院を通過しました。

ここのところ、与党が議会で絶対多数を占めるというのはこういうことかと実感する出来事が立て続けに起きています。

内外の情勢もここにきて、隣国との関係悪化、防衛法案の整備、報道規制等、なにやらきな臭い動きを感じます。

まず、4月のNHKとテレビ朝日の報道番組で、「やらせ」や政治的圧力があったとされる問題に対する政府の反応について。

自民党は、4月17日の党情報通信戦略調査会にテレビ朝日とNHKの幹部を呼び、報道番組の内容について事情を聴取しました。

45分間にわたったとされるこの日の会合で、多重債務者による詐欺を取り上げた番組「クローズアップ現代」でのやらせが指摘されたNHKへの聴取はわずか10分で、大半は政権批判の内容が問題視されたテレビ朝日への質疑に費やされました。

NHKへの聴取は落語でいうところの「前座」で、政府への批判に対するテレビ朝日への「介入」の口実ではなかったでしょうか。

とりわけ問題なのは、政府が「放送倫理・番組向上機構」(以下、BPO)への関与を検討しているという事実です。

事情聴取の同日、NHKと日本民間放送連盟でつくるBPOについて、政府が関与する仕組みの創設を含めて、組織のあり方を検討する方針を固めました。

これは、明らかに民主主義に対する権力の攻撃です。

番組の内容などの問題点を検証するBPOに政府が関わることには、当然のことながら識者らの間でも批判が出ています。

最近では、フランスの週刊新聞シャルリー・エブドへのテロ攻撃は記憶に新しいところです。

イスラム教信者の心を逆なでする風刺画については、個人的には一考の余地があるのではないかと思います。

しかし、ジャーナリスト自らの報道の自由は保障されるべきではないでしょうか。

仮に、テレビ朝日のコメンテーターによる政府批判の根拠が事実無根であるなら、政府は対象のマスコミに抗議すればよいだけのことです。

そもそも報道とは、国民の知る権利に奉仕するためのものです。

報道機関の活動は、国民の日本国憲法第21条の「知る権利」を充足させるのに重要な役割を果たすことから、事実の報道の自由は、表現の自由を規定した憲法21条の保障のもとにあるとされています。

報道は社会的に非常に大きな力をもっており、「立法」「行政」「司法」の3つの権力にこの「報道機関」を加え、「第四権力」とも表現されています。

報道は、我々国民が事象を考察するための材料そのものなのです。

そのためにも、報道機関は政府=国家権力から独立した存在であらねばならず、間違っても政府の広報機関であってはならないのです。

報道倫理について、Wikipediaでは以下のように述べられています。

「報道の自由、言論の自由を含む、政府からの表現の自由は民主主義の基本原則の一つであり、近代憲法の中で共通の権利として保障されている。

このように民主主義国では、政府の干渉からプレスの自由は強く守られているが、記事を入手するために記者がやってよいことには道義的制約が課せられている。プレスの自由の原則から、表現や報道の規制はできる限り法律ではなく、ジャーナリストが自主的に決めた倫理基準によって行われるべきだと考えられている。また、ジャーナリズムの主要な役割に『権力の監視』があり、監視の対象である国家権力にルールの制定・運用を委ねることは不適切でもある。」

自由を認めながらも、ここまで自主規制しているのです。

民主主義の観点から、秀逸な文言と言えましょう。

政府の目を気にしながらの報道には、我々日本人は暗く不幸な経験があります。

かつての第二次大戦前夜、当時の軍事政府は報道規制、言論統制を行いました。戦中もマスコミを通じ、政府による操作された情報のみを国民に流しました。同時に、政府の方針に異議を唱えることすらはばかられる翼賛体制を敷き、暗黒の時代は終戦まで続いたのです。

この間に、国民は肉親や友、恋人、そして財産をも失いました。

我々日本人はこの不幸な体験を忘れてはなりません。

国民の知る権利に資するという報道の第一義的な精神、そのような気概が報道機関にあるのか、いや、そういった報道こそをよしとする風土が日本にあるのか、いままさにここが問われています。

一方で、隣国との関係悪化により生じた危機感から、自衛隊の武力行使の範囲拡大のため、政府による法整備が着々と進められています。

4月29日、安倍首相はアメリカ議会での演説で、安保法制の関連法案成立を「夏までに必ず実現する」と約束しました。

野党からは、これから国会で議論する、しかもまだ法案として提出されていないことを他国の議会で約束をしてくるというのは、まさに国家の代表としてあるまじき発言だ、との批判が続出しました。当然でしょう。

そして、5月14日安保法制が閣議決定されましたが、この間、与党協議の内容は一切公開されていません。

これは、情報の密室化であり、まさに国会軽視、国民不在の政治運営です。

一連の動きから察するに、マスコミへの圧力に関しても、本法案の早期成立のために批判や反対意見を押さえつけようとする政府の意図が見てとれます。

国会審議前の世論調査では、国民の過半数が法案に反対しているのです。

そして5月26日、法案は衆院本会議で審議入りしました。

重大な法案だけに、充分時間をかけ賢明な結論を導くべきだと考えますが、現政権は会期を延長してまで本法案の早期成立に躍起となっています。

この間の日本政府の行動は、隣国には緊張感を煽るような態度をとりながら、アメリカの要求には無条件で快諾する、まさにアメリカの傀儡(かいらい)政権のようです。

本法案が成立するなら、これは日本国憲法成立以来の危機です。

アメリカは20世紀以来、世界の多くの戦争、紛争に関与しています。そして、イラク戦争等、曖昧な根拠を口実に攻撃を始めた経緯もあります。

イラク戦争のとき、当時の小泉政権はアメリカのイラク攻撃に対し、即座に賛同しました。結果として多くの人命が犠牲となりましたが、その一方で、参戦の大義であった大量破壊兵器の存在はついぞ確認されませんでした。そしてこの総括はいまだされていません。

集団的自衛権の名の下に他国と軍事協定を結べば、たとえ国民が納得する大義がなくても紛争に巻き込まれる可能性が増大します。

衆院特別委員会での政府の答弁では、防衛相と首相とで「リスクは増えない」「リスクはもとより覚悟」といった、あきれるほどの見解の相違がみられます。野党の質問に対しても、「解釈の仕方」に終始しています。いろんな解釈が可能だということは欠陥法案である証拠です。こんな曖昧な法案により自衛隊や国民が危険に晒されるとしたらたまったものではありません。

首相は法案を正当化するために、さかんに「抑止力」という言葉を用いています。

戦後70年の日本の歩みを見れば、「日本は武器を使わない国」という評価も大きな抑止力となるはずです。日本ができる国際貢献は武力以外にもたくさんあり、現に実行しています。

先の米議会での演説の中で、首相は「積極的平和主義」という言葉を幾度となく発しました。この言葉を意のまま解すなら、武器を持たずに行う平和や発展、復興のための支援がまさに日本に求められる貢献であり、首相が改憲のターゲットとしている憲法9条こそ守るべきではないでしょうか。

あくまで私見ですが、私は常々「外交こそ最大の防衛」と考えています。

私は、医療人として戦争には二つの理由で絶対反対です。

ひとつは、戦争は多くの人命を奪う大量殺戮であること、そしてもうひとつは、戦費捻出のため医療費の削減が必ず起こることです。

6月4日の衆議院憲法審査会では、出席した立場の異なる3憲法学者からいずれも「集団的自衛権の行使は違憲」との見解が示されました。そして、172名の憲法学者が「安保関連法案に反対し、そのすみやかな廃案を求める憲法研究者の声明」を発表しました。

それでも政府側は、違憲との指摘は当たらないと頑なな姿勢を崩していません。

ここであらためて政府には、フランスの哲学者、ヴォルテールの名言を送ります。

「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」

(この文章は、群馬県保険医新聞7月号「論壇」のための原稿に加筆したものです)

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