四重奏曲といえば、やはり中心になるのは弦楽四重奏曲でしょう。
モーツァルトはその生涯に、23曲の弦楽四重奏曲(完成したものに限って)を作曲していますが、これらは幾度かの時期に集中して書かれています(モーツァルトは同じジャンルの曲を同時期にまとめて書く習性があります)。
14才の時に最初の曲である第1番を書きますが、その後16才から17才にかけて12曲、26才から30才にかけて7曲、そして33才から34才にかけて3曲といった具合に。そしてこれらはその時期ごとにそれぞれ固有の特徴がみられます。
3月にご紹介した4曲のフルート四重奏曲と今回ご紹介するオーボエ四重奏曲は、18才から25才の、いわば弦楽四重奏曲のブランクの時期に書かれています。
そして、これら管楽器のための四重奏曲をはさんで、弦楽四重奏曲の内容が大きく様変わりしたことは実に興味深いことです。
大方の研究者によると、それより以前のものは、ハイドンの影響を時には模倣といえるほど直接的に反映しているのに対して、それより後期のものは、モーツァルト独自のスタイルを確立していると評価されています。つまり、弦楽四重奏曲の分野で独自性を確立するのに、モーツァルトのような天才をもってしても10年という歳月が必要だったということです。
このことで、私のような凡人は少し慰められたような気がして、天才モーツァルトに対してちょっぴり親しみを覚えます。
いずれにしてもモーツァルトは、このオーボエ四重奏曲を作曲した1年後には、後期の四重奏曲の作曲にとりかかることになります。そして、その後二度とオーボエ四重奏曲に着手することはありませんでした。
1778年、より条件のよい就職口を求めて、母親と共にマンハイムに赴いたモーツァルトは、当時自分のオーボエ協奏曲を演奏して人気を博していたオーボエ奏者、フリードリヒ・ラムと出会います。この時、父親に当てた手紙の中でも、奏者としてのラムを高く評価する下りが見受けられます。
それから3年後、モーツァルトは自作のオペラの初演のためミュンヘンに赴きますが、くしくもミュンヘン宮廷オーケストラにメンバーとして加わっていたラムと再会し、その喜びがラムのためのオーボエ四重奏曲を書くきっかけになったとされています。そのためこの曲は、名奏者ラムのハイテクニックを余すところなく表現できる内容になっています。
つまり、各パートのバランスを重んじる室内楽でありながら、独奏楽器を設定する協奏曲的な要素が強く感じられます。同様な性格をもった曲としては、クラリネット五重奏曲K.581が挙げられます。
さて曲は、メヌエットを書く3楽章で構成されています。
第1楽章は、田舎の朝を思わせるすがすがしい旋律で始まります。冒頭からオーボエのパートが際立っていますが、オーボエが朝を告げる鶏の「コケコッコー」に聞こえるのは私だけでしょうか。
第2楽章は、弦楽器による物悲しい通奏低音的な旋律に乗って、途中からピアニッシモで、あたかも霧の彼方からゆっくり現れるようにオーボエが登場します。
1音を、よく息が続くと思うほど長く長く引っ張ります。オーボエという楽器のもつメランコリックな特徴がよく表現された、とても短く、それでいてとても印象的な楽章です。
第3楽章は、再び快活な雰囲気に戻りますが、ここではオーボエのヴィルトオーゾ(名人もしくは巨匠)ぶりを発揮する旋律が目立ちます。
なかでも、8分の6拍子による弦楽器の伴奏に対し、オーボエが2分の2拍子で進行する、いわゆる(ポリ・リズム)の部分が聴き所です。
オーボエが主役になる曲は数えるほどしかありません。
オーボエのもつ牧歌的な音色を堪能してみて下さい。
印象に残っているのは、ハンスイェルク・シュレンベルガーとフィルハーモニアクァルテット・ベルリン(ベルリンフィルの主席奏者からなる四重奏団)のメンバーによる演奏ですが、オーボエ奏者としてハインツ・ホリガーが加わったものならどれでもお勧めです。
(1995年群馬県保険医新聞7月号に掲載したものに加筆)