私たちが日々生活する中で、心配や悩み、そして怒り、憎しみ、恨みといったネガティブな感情の元となる出来事のいかに多いことか、やれやれです。
自分と同じ考えや感情を持った人ばかりであれば問題は起こらないのでしょうが、社会生活を営む以上他人との共生ですから、考えや感情のぶつかり合いは起こって当然です。
このぶつかり合いは努力により解決する場合ももちろんありますが、悲しいかな不可抗力の場合も多々ありえます。
逆にいうと、このネガティブな感情をコントロールできれば、人生、かなり快適に過ごせそうな気がします。
同じ人生なら、できれば快適に過ごしたいものです。
これらネガティブな感情は、自律神経のうち交感神経が興奮している状態で、この状態が長く続くと、体力を消耗する一方で、消化吸収というエネルギーを貯蓄する機能の低下をもたらしますから、体の抵抗力を弱めます。自律神経自体をコントロールすることはできませんが、私たち人類は、ストレスを起こさせるものの受け止め方をコントロールすることは可能です。
さて、人との出会いにおいて、素晴らしいと思える人もあれば、そうでない人もいます。
相手が素晴らしい人物だと思えば、自分がそれに近づくように努力すればいいわけです。
では、相手が自分からみて反感、あるいは嫌悪を抱く人物ならどうでしょうか。
なぜ自分は相手に対しそういう感情を抱くのか、また自分が相手のようにならないようにするにはどうしたらいいか、つまり反面教師として「研究対象」とすればいいのです(ただ、反感を抱く人物でも自分にとってかけがえのない存在ということもあります)。
一方、そのとき、相手から見て自分は一体どう映っているのかも同時に考えてみる必要があります。相手もこちらに対し、ネガティブな感情を抱いているかもしれません。
「人のふり見て我がふり直せ」といったところでしょうか。
さて今回は恨みについて。
この感情は、自分の経験ではかなり根の深い問題だと思います。
換言すれば、この感情をコントロールできると、かなり人生を生きやすくなるでしょう。
中国の思想家老子は、「恨みに報ゆるに徳を以(もつ)てす」つまり、「うらみのある者をうらまず,博愛の心から恩徳を施す」と説いたそうです。
現実的には、自分自身も含め、なかなかそこまで達観することは難しいでしょう。
そこでまず、感情を整理してみましょう。
まず、相手に対し抱くネガティブな類似感情に「怒り」「憎しみ」「恨み」があります。
「怒り」は、相手に対し強く腹を立てることです。三つの中では、最も広い意味で使われ、ときには政治や制度等、世の中を変革する力にもなります。
「憎しみ」は「人やものごとに対して、強い反感や嫌悪感を抱き、その存在が許せないと思うこと」という意味です。
そして「恨み」は、相手に酷い目に遭わされたことを根に持ち、強い嫌悪感を抱くことです。
自分の抱く感情がどれなのかをまず冷静に分析しましょう。
この中で、少なくとも「恨み」はその感情を抱く前提として、相手から精神的、肉体的、あるいは物質的損害を蒙っていることが挙げられます。「怒り」や「憎しみ」もこういった損害を蒙っている場合もありますが、相手と自分との間に直接的な加害、被害の関係がないこともあります。
「恨み」をコントロールする場合、こう考えてはいかがでしょうか。というか、すでに高齢者になった私はこう考えるようにしています。
相手は自分に対し、どんな精神的肉体的、あるいは物質的損害を与えたのかをまず考える。
そしてそれは、自分の努力、能動的な働きかけによって解決可能かどうか、このへんを冷静に考えてみます。解決可能であればもちろん具体的に行動すべきです。
努力によって解決できない場合について(このほうが圧倒的に多い)。
自分には全く責任がないのに、「恨み」という感情を胸に抱くことによって、いまの自分、そして今後の自分にプラスになるかどうかで判断してみてはいかがでしょうか。
自分にプラスのエネルギー、つまり「やる気」が生まれるのであれば持ち続けるべきだと思います。ただしこの場合は、すでにネガティブな感情ではなくなっているのです。
一方、それがマイナスに働く場合、きっぱり忘れるか、それができないならそんなことのために自分が不愉快な人生を送ることはバカバカしい、損なことだと割り切ることです。
マイナスに働くとは、例えば恨みのために日々の生活が楽しくない、熟睡できない、仕事や勉強に集中できない、表情がすぐれない、他人に優しくできないといったことです。
これは、自分の人生にとってとても大きな損失です。
相手を恨むことによって、こちらが不快な日々を過ごす、つまり「恨む」というネガティブな感情により、自分自身がネガティブな生き方をする---これは、二重に損害を蒙っていることにならないでしょうか。
第一、相手はこちらが恨みのために不快な日々を過ごしていることなど、知る由もないのですから、考えてみればこんなバカバカしいことはありません。もったいない「一人相撲」です。
ネガティブな感情から解放され、少しでも快適な生活ができますように。
*「快」という字は、立心偏に「抉る(えぐる)」の旁(つくり)から成ります。
立心偏は心を表し、心に覆いかぶさる不快なものをえぐり取るという意味からできています。
語源に興味にある方は、当院ホームページの語源のコーナーを是非覗いてみてください。
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