一病息災
無病息災とは文字どおり、病気にかからず健康なことをいいます。
ちょっと本題からはずれますが、2字の熟語をあえて並べて4字熟語にしているところをみると、昔から「病気でない」ことと「健康なこと」とは、同義語ではなかったことがわかります。つまり、病気ではないというだけでは必ずしも健康とはいえず、そこに生きている充実感が伴ってはじめて健康といえるのではないでしょうか。このことについては、最近出版した(予定?)2冊目の拙著
「真の健康を求めて」
で触れていますので、ぜひご一読いただければ幸いです。
さて本題に戻ります。
人は、順風万帆(じゅんぷうまんぱん)といった調子のいい時には、その原因を考えるという行動をとりにくいものです。反省とは、普通結果が思わしくなかった時に行うもので、反省材料がない時には行いようがありません。しかしよくよく考えてみると、反省材料がなかったのではなく、見えなかっただけだったということがほとんどではないでしょうか。
健康状態についても同じことがいえるようです。
自分は健康だと思っている時は、少なくとも精神的には健康なのだと思います。しかし肉体的にどうかといえば、まったく異常がないという場合も考えられますが、一方では病的状態との境界に近い場合も考えられます。健康診断などは、このような「要注意」状態を知るには大変役立ちますが、検査数値などの扱いについてはそれなりの心構えが必要です。わずかに異常を示す数値を見たとたんに、自分は病気なんだと判を押されたような気分になり、そのショックでかえって精神的に病的状態に陥ってしまう人がいます。数値を見たがゆえに気分がすぐれず食欲が減退し、それで健康状態を損なっては、数値を知ったことが逆効果になってしまいます。こういったタイプの人は、発想の転換が必要です。異常な数値がひとつあったら、「 無病息災」ならぬ「一病息災」という考え方をすべきではないでしょうか。
建築家は、広大な土地に何の制約もなく家を設計するのが最も難しいといいます。土地に制約があると、その欠点を克服するために、おのずとある形が決まってきます。自分のからだに対する危険信号を知るということは、自分のからだの傾向を知ることであり、自分の生活の指標を知ることです。油断するとこういう方向に進む傾向があるということを知っていれば、それさえ気をつけていれば一応健康状態は維持できるはずです。それを知ることにより、まったく異常がない人に比べ、生活面での無茶をしないですみます。
逆に、健康診断でまったく異常がなかった人(見つからなかった人)は、健康に感謝し、くれぐれも無茶をしないように心しなくてはなりません。「勝って兜の緒を締めよ」といったところでしょうか。実は、人間にとってこれが一番難しいことかもしれません。
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