10年越しのシクラメン

毎年、年末にシクラメンを頂戴します。

以前のものと比べとてもカラフルで、バラエティも豊富になりました。

頂いたものは皆、これぞ最高の自分とばかりに咲き誇ります。

完成された美しさ、でしょうか。

でも、最近はそういった経緯で頂いたシクラメンのその後の姿に惹かれます。

写真のシクラメンも、おそらく7、8年経過したものです。

形はそれなりに乱れていますが、野趣といいますか、必ずしも理想的な条件下ではありませんが、植物がそれなりの環境下で生きている姿を見るのは、また格別です。

また来年も幾つか花をつけてけくれたら、と思いつつ、がんばっているシクラメンにエールです。

 

そうだったのか語源㉖   -数に関する言葉-

 人の指の数が左右で計10本だったから10進法が発達したと言われている。

 仮に、合計12本だったらもっと文明は進歩したのではないかとも言われている。

 12進法というのがある。時刻や方位に使われる場合が多いが、たしかに円に関する場合、10より12のほうが使いやすい。円を10等分するのは結構難しいが、4等分、6等分は簡単で、つまりその倍数である12等分は比較的簡単である。しかも10の約数は1,2,5,10しかないが、12では1,2,3,4,6,12と多い。

 さて、漢字由来の数詞から派生した言葉には大袈裟な、あるいは比喩的に強調した表現が目立つ。

 「万一」あるいは「万が一」とは、「万に一つ程度のほんのわずかな可能性のあること」が直訳だが、日常的には「ひょっとしたら」「もしかしたら」くらいの意味に使っている。1/100は百分率では1%なので、「万が一」とは0.01%、つまり限りなくo%に近いが、実際に使っている実感としては確率的にはもっと大きいのではなかろうか。

 「白髪三千丈」とは、原典は李白の「秋浦歌」で、長年の憂いが重なって白髪が非常に長く伸びたことを誇張して表現したもので、日常的には「心に憂いや心配事が積もること」を例えている。「丈」とは、馬の前足から肩の高さとされているので1.2〜1.5m、つまり3000丈とは3600mから4500mとなる。かなり大袈裟であろう。

 「千差万別」は、いろいろなものにはそれぞれ相違や差異があることの例えとして使われているが、宋の時代の道原による仏書「景徳伝灯録」の禅問答に由来しているようである。これに比べ、類義の日本語の熟語「十人十色」はなんとも穏やかというか、文字通りでハッタリの微塵も感じられない。

 中国戦国時代の道家である列子由来の「千変万化」も意味こそ違えど似た表現である。「千差千別」でもよさそうだが、「千」の次に「万」というさらに大きな単位を使うことで、多いことをさらに強調する狙いがあると思われる。

 さらに「千載一遇」とは、直訳すれば「千年に一度出会うかどうかのチャンス」の意で、晋代の袁宏の著「三国名臣序賛」が出典とされている。

 「万国」「万人」「万病」「万障」というように、「万」は訓読みで「よろず」と読むように、非常に数が多いことの表現として用いられる。

「万策尽きる」の「万策」や「万事休す」の「万事」も同様の使われ方である。

 さて、英語で数に関する曖昧な数詞で、「a few —」というのがある。量では「a little—」という表現がそれに当たる。日本語では「数 —」を当てている。では、「数 —」とは具体的にいくつを指すのか。「二三の」と考える方と「五六の」と考える方がいる。これも時代とともに変遷するようである。

 1967年11月、当時の佐藤栄作首相のもと、日米首脳会談が行われ、沖縄返還のメドを両三年以内(先方のコメントではwithin a few years)につけることで合意した。2~3年以内に返還することを約束したのではなく、数年以内に返還時期を決めるという内容だった。結果的に1972年に本土返還が実現したが、やはりこの場合、「a few years」は日本側の思惑とは裏腹に「5〜6年」と解釈するほうが妥当だったのではなかろうか。

 いずれにしても、「数—」という曖昧な表現は、使う側にとっては責任を曖昧にするという意味で便利だが、両者の間に誤解や約束自体の瑕疵を生じる恐れがあることも事実である。

 ところで、我が日本語の数詞で、うんちくのあるものは如何。

 とっかかりに常用の言葉である「ろくでなし」を取り上げてみたい。

 この「ろく」は数の6ではなく、通例として「碌」の字が当てられているが、実はこれも当て字である。

 本来は「陸」である。勾配のない平らな屋根のことを「陸(ろく)屋根」というが、「陸」は土地が平らなことから、物や性格が平らで真っ直ぐなことを指す。そこから性格が真っ直ぐでないことを「陸(ろく)でなし」と言うようになったそうな。

 歌舞伎の用語が語源とされるものに、「七変化」がある。一般的に「物事がくるくる変わる」「素早く変化する」といった意味で使われる。

 もともとは歌舞伎舞踊の世界で使われている言葉で、「変化舞踊(へんげぶよう)」からの派生語である。ちなみに、「変化」を「へんか」と読むのは漢音、「へんげ」は呉音である。

 「変化舞踊」とは、いくつかの小品舞踊を組み合わせて構成されたもので、同じ踊り手が次々に扮装を変えて異なる役柄を連続して踊り分けるものを言う。

 少ないもので「三変化」、多いものだと「十二変化」まであるが、「五変化」や「七変化」で構成されるものが最も多かったため、日常用語になったようである。

 さて「八方美人」とは、誰に対しても上手に立ち回る人を指す比喩である。

 「八方」とは、東西南北とその間の45度の方位を入れたものである。

 「八方塞がり」も逃げ道のないことを表すが、「四方」より「八方」のほうがより全方位的なニュアンスが強くなる。その意味では、先の流れからすると「四面楚歌」という比喩は、古代中国の表現としては随分謙虚に思えるがいかがだろうか。

 「八面六臂」 とは、仏像などで八つの顔と六本の腕を持っていることを意味し、多才で一人で何人分もの活躍をするたとえに引用される。

 話はやや逸脱するが、奇数は日本文化にとって色々な意味でバランスがよいと思われる節がある。西洋の左右対称文化に対し、日本文化は概ね左右非対称文化といえよう。日本の城には左右対称なものは少なく、金閣寺(鹿苑寺金閣)、銀閣寺(慈照寺銀閣)も左右非対称、神社の狛犬は、口を開いている阿形と口を閉じている吽形が左右にあって、これも非対称。同様に、仁王門の阿形と吽形もしかり、庭園や書院造りも完全な非対称である。

 例外として、古代建築では五重塔は建坪に対し高さがあるため、重心のバランスから左右対称、あるいは回転対称とする必然性があった。一方、国会議事堂や迎賓館はほぼ左右対称だが、これは列強に追いつくべく、西洋建築を模倣したためと考えられる。

 その他、俳句は5-7-5、短歌は5-7-5-7-7、都々逸(どどいつ)は7-7-7-5と、奇数の句の集合体である。

 古来からの仏教建築では、舎利を納める五重塔が有名だが、その他、優美でリズム感のある薬師寺の東塔、西塔も三重塔である。

 その薬師寺の本尊である薬師三尊も、中央に薬師如来、左右に非対称の日光菩薩と月光菩薩を随え3体で構成されている。

 同じく、法隆寺の釈迦三尊も中央に釈迦如来、左右に両脇侍(きょうじ)像を配しているが、これも左右非対称である。

 実は、これは古代中国の陰陽道の影響と考えられる。

 陰陽道では、奇数が陽で偶数が陰となっている。西洋文化の影響を受けた現代の感覚からするとやや違和感がある。

 しかし音楽のリズムを例にすると、通常一拍目が強く二拍目が弱い(この逆を裏拍という)。ここから奇数が陽であると理解するに無理はない。

 つまり陽が正で陰が負と考えられ、尊いこと、あるいはめでたいことを表現するのに陽を用い、その逆を陰とした。

 もっとも、「八」を末広がりと形容したり、先に触れた双璧や六歌仙、四天王など、偶数をよしとする例外もある。

 いずれにしても、日本文化は無常や時や形の移ろい、ひいては不完全なものに美を感じる文化とも言える。

 これに対し、西洋文化は偶数文化と表現できよう。

 パリのルーブル博物館、凱旋門、シャイヨー宮、ロワール渓谷のシャンボール城、ロンドンの大英博物館、バッキンガム宮殿、ベルリンのブランデンブルク門、ウィーンのシェーンブルン宮殿、アメリカ連邦議会議事堂、ホワイトハウス、イタリア庭園等々、左右対称の建築物は枚挙にいとまがない。ちょっと古風な西洋の部屋のしつらえでも、マントルピースを中央にして、絵や写真を左右対称に飾った光景を目にすることも多いのではなかろうか。

 日本では、左右対称の古い建築物といえば京都の平等院鳳凰堂ほか数えるほどである。これは、「この世をば わが世とぞ思ふ望月の かけたることもなしと思へば」と詠んだ藤原氏一族の世界観からすれば、完全無欠、つまり欠けてはいけないという理想論の具現化したものといえよう。

 別の見方をすると、日本文化が自然界に依存、あるいは自然界と共存する文化であるのに対し、西洋文化は自然を支配する文化とも言えるようである。 

 これは、それぞれ民族の置かれた環境の違いに依拠していると考えられる。

 紀元前から西洋・中国の小麦農業は牧畜を伴い、人口増加につれ森林を伐採、開墾し、作付け面積を増やし家畜を増加させていくので、自ずと自然は破壊される。こういう生業からは、人間は自然界を「支配する」と考える文化が生まれやすいのではなかろうか。

 人が作るものは、左右対称の同じ物が幾つでも容易に作れるので、偶数が馴染みやすい。ところが、日本の縄文人の生業は、魚猟・採集、弥生時代は稲作・養蚕が主。これは、人は自然界に頼らないと生存できないので、自然の循環との共生を大切にする生業を選択した結果ではないかと考えられる。自然界を観察すると、左右対称のものはごく稀である。このような自然を崇拝する日本人の心性から、「奇数」の文化が生まれたという見方もできよう。

 閑話休題。

 デジタル=digitalの語源については、語源⑩「アナログとデジタル」を参照されたい。 

 さて、ローマ数字のⅤはアラビア数字の5だが、これは片方の掌を広げた形、Ⅹはそれを二つ上下に合わせた形で10を表現したとされている。

 12345678910
ギリシャ語mono モノdi ジtri トリtetra テトラpenta ペンタhexa ヘキサheptaヘプタocta オクタnona ノナdeca デカ
ラテン語ūnus               ウーヌスduo                  ドゥオtrēs                 トレースquattuor            クァットゥオルquīnque           クィーンクェsex                  セクスseptem           セプテムoctō                 オクトーnovem            ノウェムdecem             デケム

 化学用語では、数詞としてギリシャ語がよく使われている。

 ジメチル=dimethyl の「ジ」やトリニトロトルエン=trinitrotolueneの「トリ」、テトラサイクリン=tetracyclineの「テトラ」はその例である。

 モノラル=monaural 、モノレール=monorail、モノローグ=monologue、等の「モノ」はギリシャ語の「1」を表すmono-から派生しており、日本語では「単一」、「独」といった字が当てられている。

 ペンタゴン=pentagonは5角形の意味だが、建物の形からthe Pentagonは米国の国防総省を指す。函館の五稜郭もいわば和製pentagonである。

 最近流行りのDHA=docosahexaenoic acidはドコサヘキサエン酸と和訳されるが、hexa-=6つの二重結合を含むdocosa-=22個の炭素鎖をもつカルボン酸の意味である。

 ヘプタン=C7H16は炭素鎖の7からつけられた液体の名前である。

 また、「オクタ」はオクトパス=octopus やオクタン=octane、オクターヴ=octave(8度音程) の派生語に使われている。

 「ノナ」はnonagon=9角形などに使われるが、「ノナ」から派生した「ナノ」のほうがなじみ深い。ナノテクノロジー=nanotechnologyはナノメートル(1×10-9m)レベルの物質を扱う技術を指す。

 「デカ」はデカメートル=decameter(10メートル)の語源であるが、日本ではあまり使われない。100年をcenturyというのに対し、10年をdecadeというが、これも日本ではあまり馴染みがない。

 しかし、ボッカチョ作「デカメロン」=十日物語や、いまでは12個を意味するダース=dozenもdeca-から派生した言葉である。

 さて、次にラテン語の数詞の派生語について。

 ūnusからuni-という言葉ができ、ユニフォーム=uniformやユニーク=unique、UN=国連のユニオン=union、ユニクロ=UNIQLO等が挙げられる。

 ひとつ、唯一、単一、同一といった意味がある。

 「ウニコ」というブランドがあるが、この社名はスペイン語で、「唯一、ユニーク」を意味するunicoに由来している。磁器などでも、大量生産したものに対し、「一点もの」を意味するunicoという言葉がよく使われる。

 ちなみに、ユニクロの社名はUNIQUE CLOTHING WAREHOUSEの略だが、そうであればUNICLOのはずだが、登録の際、何かの手違いでCがQになったものの、それがかえって面白いとそのままUNIQLOの商標になったそうな。

 デュエット=duetやデュオ=duoはもちろんふたつ、ふたりの意味のduoから派生しているが、意外にもジレンマ=dilemmaもふたつの矛盾することが同時に起きている様を表している。

 このduo-以外に、2を意味するラテン語の接頭辞「bi-」の英語読みとして、「バイ」というのがある。

 バイリンガル=bilingualやバイメタル=bimetal(サーモスタットに使われている熱膨張率の異なる2枚の金属を張り合わせたもの)、またバイアスロン=biathlon(ふたつの競技を合わせたもの)、ひいてはバイシィクル=bicycle(輪=cycleをふたつ繋いだもの)も派生語である。エヴィデンスは確認できないが、個人的には、副を意味する英語の接頭辞by-、例としてside by sideやbypass等があるが、日本語では「並」「並んで」が相当し、bi-と同じ語源ではないかと思われる。

 trēsはギリシャ語のtriと似ていて、たとえば3人組のトリオ=trio、三角形=triangleやトライアスロン=triathlon(3種の競技を合わせたもの)などの派生語がある。

 quattuorは、四重奏のカルテット=quartet 、4輪駆動の車のクワトロ=quatro、英語の1/4を表すクォーター=quarter 等の語源となっている。

 quīnqueはなかなか派生語が浮かばないが、五重奏のクィンテット=quintet

はその派生語である。歯科関係の出版社でクィンテッセンス=Quintessenceがあるが、これは直訳すれば「5つの元素(要素)」だが、ギリシャ語の四大元素「空気・火・水・土」に続く、ラテン語で「第5の元素(要素)」を意味する。

 septemは7、octōは8を意味し、ともに7番目の月=September、8番目の月=October の語源だが、現在ではそれぞれ9月、10月を指す。

 一説に、ジュリアス・シーザー=Julius Caesarが自身の誕生月の7月=Julyを、そしてその後継者のアウグストゥス(オクタヴィアヌス)=Augustusの誕生月の8月=Augustをそれまでの10カ月に入れたため、2カ月ずつずれたというのがあるが、これはどうやら誤りのようである。

 現在の暦の元になっているのは、紀元前8世紀頃のロムルス暦。この暦では、1年は3月=Marchから始まる10カ月だった。これには、当時の主要産業である農作業の始まりに合わせたとの説がある。それによると、Septemberは文字通り7番目の、Octoberは8番目の月だった。しかしその後、太陽の周期に合わせて12の月があるヌマ暦が使われ、1年の始まりに1月と2月の2つの月が加わった。そのため、双方とも2つずつずれて7月→9月、8月→10月となったというのが有力である。

 10を意味するdecemの派生はギリシャ語のdecaに準ずるがこれは先に触れたので割愛する。

 数詞に関する語源は数々あり、数え上げればきりがない。

新医院建設

10月22日に地鎮祭が執り行われ、11月よりいよいよ青葉歯科の新診療所の工事が始まりました。

順に、11/9 11/20 12/10 12/27の建設現場の状況です。

11/9の写真は、駐車場のアスファルトを剥がしたときのものです。

11/20の重機(ユンボ?)は、掘削したあとどうやって地上に出るのか、興味津々でしたが、残念ながらその場を見ることはできませんでした。

最初、2m近くまで重機で掘削したので、患者さんの中には「地下室ができるんですか?」と訊ねる方も。新医院は、地下室なしの地上2階建てです。

面白いのは、11月中は、診療中作業員の方の声はほとんど聞こえなかったのですが、12月になると次第に声が大きくなってきました。作業する高さが次第に地上に移ってきたんですね。

これから徐々に立ち上がり部分ができてくるでしょう。

新型コロナの感染状況で、よく「65歳以上の高齢者」という表現が使われますが、私自身、既にその年齢になりました。

でももうしばらくの間、モチベーションを維持して、皆さんの健康維持に、そして自身の健康維持にも繋げていきたいと思います。

来年はぜひとも困難を乗り越え、良い年にしたいですね。

10月22日に地鎮祭が執り行われ、11月よりいよいよ青葉歯科の新診療所の工事が始まりました。10月22日に地鎮祭が執り行われ、11月よりいよいよ青葉歯科の新診療所の工事が始まりました。

ストレスと免疫力

冬を迎えたいま、例年のインフルとともに、新型コロナウィルス感染の第3波とみられる拡大が告げられています。

 私たちは、見えない敵に対し、いまだ確実な対処法が見出せないでいます。

 とかく、三密の回避やマスク着用、手洗いといったいわゆる対外的な対処法に関心が向きますが、同じ条件のもとでも、感染する人としない人がいることも事実です。

 まずは原点に立ち返り、自分自身の対処法にも向き合う必要がありそうです。

 これは対コロナのみならず、細菌やウィルス等あらゆる外敵に対しての感染防御と症状の悪化軽減に役立つはずです。

 自身の対処法、つまり免疫力をつけることです。

 以前にも触れましたが、私たちの日常の体調は自律神経によってコントロールされています。自律神経は交感神経と副交感神経からなり、大雑把に言えば、臓器に対し相互が促進と抑制という拮抗作用(反対の働き)でコントロールしています。どちらかと言えば、交感神経が活動に適した作用をし、副交感神経が体を休めたりエネルギーを貯蓄しようとする作用をします。

 別の表現では、交感神経は脳を活発に働かせる作用もしますが、同時にストレスに対処するときにも働きます。

 逆に、副交感神経は主にリラックスさせたり、睡眠時に作用します。

 ここで注目したいのは、交感神経を過度に興奮させるストレスという刺激です。

 働きすぎ、悩みすぎといった「心身の疲れ」などで、心と体にストレスがかかると、自律神経が乱れて交感神経が過度に興奮します(ちなみに性格的にイライラしたりせっかちな人も交感神経の働きが強い傾向があり、病気になりやすいと言われています)。

 その際、交感神経からアドレナリン(というホルモン)が分泌されることで、白血球の一種である顆粒球が増加します。 

 顆粒球は細菌を処理する力が強く、自らが発生させた活性酸素によってそれを殺します。細菌を処理した後は膿(化膿性炎症)を作ります。増加した顆粒球は、役割を終えるときに活性酸素を放出しますが、この活性酸素は広範囲で組織破壊を起こします。そしてそれと共に、血管が収縮して血行も滞ります。

 その結果、細胞の老化、血行障害などが起こり、がん、心臓病、高血圧、便秘、不眠等、さまざまな疾患が発生しやすくなります。

 また、顆粒球はサイトカイン(免疫細胞間の情報伝達物質)を産生し、これが過剰に産生された場合には組織を障害したり、免疫細胞であるリンパ球の働きを抑制すると言われています。

 ここで、自然免疫と獲得免疫について簡単に触れておきます。

 自然免疫は、外敵が侵入した際、敵が何であれ、まず真っ先に出てきて貪食作用(相手を取り込んで分解処理する)を行いますが、白血球の一種の顆粒球はその代表です。

 一方の獲得免疫は、一度体内に侵入した敵の情報を確認し、その情報から作った抗体で攻撃します。これらの働きをするのが同じく白血球の一種であるリンパ球です。

 リンパ球は、細菌よりもさらに小さい異物を処理するように進化した白血球で、接着分子(接着タンパク)に小さい異物を吸着させて認識します。

 小さな異物とは、ウィルスや消化酵素で分断された他の動物や植物のタンパク質などです。はしかウィルスや卵白などに免疫ができるのはこのためです。

 その代わり、リンパ球は細菌に対しての免疫作用はあまり機能しません。細菌で起こる病気は顆粒球が処理するため、リンパ球の誘導が起こりにくく免疫(狭義の免疫)ができにくいのです。

 自律神経の支配分野(どの機能をコントロールしているかということ)では、顆粒球は交感神経の支配を受け、リンパ球は副交感神経の支配を受けています。

 つまり、ストレスが多く交感神経の興奮が高まった状態が続くとリンパ球の働きが弱くなり、ウィルス感染に対する抵抗力が弱まるというわけです。

 換言すれば、副交感神経の支配をやや高めておくことが、ウィルス感染の予防につながるのです。

 この実践について、財団法人 脳神経疾患研究所 総合南東北病院発行の「健康倶楽部」の記事をご紹介します。

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(1)ストレスの多い人は、副交感神経を刺激して優位に保っておく  

 副交感神経とは、夜や休息時に働く神経、血管を広げ血流を促し、心身をリラックス状態にする働きがあります。緊張したり、興奮したりすると交感神経が優位になり心臓の拍動を高め、血圧を上昇させます。通常はこの二つの神経がバランスを取っているのですが、ストレスや過労などで自律神経が乱れると白血球にも悪影響が及ぶのです。ですから、やや副交感神経を優位に保っておくことが免疫力アップにはよいと考えられています。            

 副交感神経を優位にするには、             

A)適度な運動をする

B)深呼吸をする

C)食事をゆっくりよく噛んで食べる

D)ぬるめのお風呂につかり体をあたため血流を良くする  

 副交感神経が優位になると、リンパ球が増えて免疫力が向上します。ただし、増えすぎは免疫過剰で問題です。とはいえ、現代のストレス社会は交感神経が優位になりやすく、免疫力の低下につながっていると考えられます。

(2)免疫力を高める食品をとる  

 免疫力を高める食品といわれているのが、食物繊維が多い食品、抗酸化食品です。腸内の環境がよいと免疫力がアップすることは明らかになっています。腸は病原菌などが腸壁から侵入するのを防ぐ免疫細胞が多く集まっているので腸内の善玉菌を優位にするために食物繊維の多い食品や、ヨーグルトなどの発酵食品を積極的にとることです。 

  *積極的にとりたい食品   玄米・野菜・きのこ類・バナナ・緑茶・ココア・りんご・ヨーグルト・納豆など  

(3)ストレス過剰にならない

 現代社会において、ストレスはつきものです。そのストレスをうまく発散させること、といってもそれが簡単にできれば言うことないのですが、ストレスが強いと、交感神経が優位になるので、免疫力が弱まると考えて下さい。副交感神経を優位にさせるとストレスが弱まり、免疫力がUPすると考えれば良いわけです。      

 仕事などで疲れたら、無理をせずに十分休養すること。無理をして疲労を回復させずにいると、当然免疫力が弱まり、病気に抵抗できない体になってしまいます。  

 毎日の生活の中でリラックスできる時間をとることです。リラックスの時間に笑いがあれば最高です。  「笑う」ことは副交感神経に支配されているので、「笑い」のある生活が免疫力を高めることになるのです。 

(院内だより「あおば」No.201)

そうだったのか語源㉕   -動物にまつわる言葉 その2-

テーマの対象が思いの外広かったので、急遽2回に分けた。

今回はいわば番外編なので、整理しにくいものを雑駁ながら挙げてみよう。

その前に、何故大人になると動物から植物に関心が移る傾向が多いのか、考えてみたい。

動物は動きが比較的俊敏、あるいは確認しやすい、一方植物は反応が緩慢、あるいはわかりにくいという点では、まずはコンセンサスが得られよう。

自分のことを振り返ってみると、こちらで何か働きかけをして、即座に反応を確認、あるいはそれによる満足を得ようとするのが、子供ではないだろうか。

誤解を承知で言うならば、そういった経験を何度となく繰り返しているうちに、その後の変化に予測が働き、意外性を排除するようになるのが大人ということではなかろうか。

また、3歳にとっての1年は人生の1/3であるのに、私の例で言えば当年66歳にとっての1年は1/66である。

分母が大きい分、この分数の値、つまり変化量は小さくなる。年齢を重ねるにつれ、人間が保守的になるのは、ある意味生理的にも整合性があるのかもしれない。

逆に、歳をとっても冒険的革新的な生き方をしているのは、精神的に青年をつら抜いているとも言える。

人間保守的、あるいは保身的になったらそれはある意味死に近づいたということなのかもしれない。

閑話休題。

さて、リスは英語ではsquirrelだが、これには動詞で「ため込む、隠す」という意味がある。おそらく、リスが頬袋に木の実などをため込む様子からできた動詞だと考えられる。

ちょっと発音が似ている言葉に(やや強引か)、スキャロップ=scallop、日本語ではホタテ貝がある。

scallopはその他、波型模様、カーテンやテーブルクロスの扇型模様、そして歯科分野では歯と歯肉の境目の波型模様をも指す。ホタテ貝の貝殻の縁の形状から派生した意味だと思われる。

ホタテ貝から、話は水の中に移る。

軟体動物のタコは英語でoctopusだが、これはラテン語のocto=8とpous=足からなり、直訳は「8本足」ということになる。オクターヴやガソリンのオクタンも8が語源となっている。

「海老で鯛を釣る」とは、「わずかな手間(資本)で大きな利益を得る」意味だが、エビも高価では?と思わないだろうか。実はこの場合のエビは、伊勢エビなどではなく、餌に使う安い小エビを指す。

「鯖を読む」とは、「数をごまかす」という意味に使われる。

これは江戸時代、足が早く(=腐りやすく)大量に獲れた安価なサバを数えるのに、時間がかけられないため、適当に数えたところからできた諺である。

ついでに、「足が早い」とは。

「脚=足」は、「雨脚」「日脚」「火脚」等に使われるように、物事が時間とともに変化していく様を表す。足で移動することから時間の移動、つまり経過にも使われるようになったようである。つまり、「足が早い」とは、「新鮮な状態から腐敗するまでの時間が短い」となったのであろう。

海外に目をやると、イタリアにサルディニア(イタリア語: Sardegna)という島がある。この周辺の海では昔からイワシがよく獲れた。そのため、イワシの英語名sardine=サーディンはこの島の名に由来しているとか。

魚関連で、服地にヘリンボーン-herringboneという模様がある。V字形や長方形を縦横に連続して組合せた柄だが、これは開きにした魚の骨の形状に似ているところから、ニシン=herringの骨=boneという意味からつけられた呼び名である。

服地の話のついでに、ドスキンという生地がある。昔の軍服などに使われていた、目のつんだビロードのような光沢の厚手の織物を指す。doeskinと書くが、前回㉔で触れたdoe=雌ジカの(なめし)skin=皮のことであるが、一般的にはこの雌ジカの皮に似せて作られた厚地紡毛織物をいう。

ちなみに、moleskin=モールスキンは厚手の綿織物のことで、mole=モグラの皮のような肌触りからつけられた。個人的には、キウイフルーツの感触に似ていると思うがいかがか。

その他、動物の毛皮を使ったものではsealskinがあるが、これはオットセイやアシカの毛皮を指す。

英語のtunaは、スズキ目サバ科マグロ属のマグロやカツオを指す。ちなみに、sea chicken=シーチキンは日本のある会社の商品ブランド名であるが、マグロの食感が鶏のささみに似ていることからつけられたとされるが、まさに言い得て妙である。

話は細菌の名前に移る。

食中毒の原因菌であるサルモネラ菌=Salmonellaは、発見した細菌学者、Daniel Salmon=ダニエル・サーモンにちなんで名付けられた。

サーモンはもちろんサケ目の魚サケのことである。だから、サーモンさんは日本語では鮭さんである。

サーモンのスペルはsalmonで、-l-はサイレントで発音しない。

通常、細菌の命名には、発見者の名前に接尾語として-ellaをつけることが多い。

Salmonに-ellaをつけSalmonellaとなり、この場合は-l-はサイレントではなくなり、サルモネラと発音する。

ちなみに赤痢菌はShigellaというが、これは発見者の志賀潔のShigaに-ellaをつけた命名である。

クレブシエラ(Klebsiella pneumoniae)という肺炎の原因菌は、発見者であるドイツの細菌学者Edwin Klebs=エドウィン・クレブスの名をとった命名であるが、これも-ellaがついている。ちなみにKlebs=クレブスは、ドイツ語で悪性腫瘍を意味するが、疾病であるものの、これは発見者とは関係がないらしい。

ついでに、がんは英語でcancer というが、ドイツ語のKlebs同様、カニのことである。ギリシャ語の「カルチノウス」が語源で、これは乳がんにおいて、ちょうどカニが手足を広げたような硬いしこりを表面から触れる様を表現したものされている。

さて、カニは漢字で「蟹」と書き、甲殻類なのに「虫」がついている。

同様にヘビは漢字で蛇、カエルは蛙と書く。これらはなぜ虫編か。

実は、「虫」という字は、ヘビが鎌首をもたげた形からできた象形文字である。それゆえ、ヘビの仲間である爬虫類(ここにも虫が出てくる)の生物を表すのに、この字が使われている。つまり、うねうね、くねくねしたもの、あるいは足の多いものに爬虫類のイメージが当てられ、虫編がついている。蛙(カエル)や先に出た蛸(タコ)等もその例である。

ちなみに虹に虫編がついているのは、天を渡る龍(ヘビの仲間)のイメージからつけられたものと考えられている。

では、いわゆる昆虫の名前に使われている「虫」はというと、本来は「蟲」の字が使われていた。虫がうじゃうじゃ蠕いているイメージを表したと考えられる。それが略されて「虫」となった。

引き続き虫にまつわる話題を。

最近では、フリマと呼ばれるフリーマーケット。自由に出品できるからfree marketと思いきや、実はスペルが全く違う。正しくはflea marketである。このような誤解を生じるのは、l とrの発音を正しく区別できない日本人の残念なところである。fleaは節足動物のあのノミのことで、つまり「蚤の市」のことである。ではなぜノミなのか。

時代は遡り、フランスの第2帝政時代(1852-1870)に、パリの中心街を軍隊が行進出来るように大通りにしようと再開発が行われた。それにより、スラム街や古い商店は取り壊された。売り場を追われた商人たち(大半は中古品を売っていた)はパリの北部、 ポルト・ド・クリニャンクール(Porte de Clignancourt)で市を立てることを許可され, 1860年に初めて売店が登場した。要するに、中古品を売っていたのでノミがいるだろうということから、やがて人々はその市を marche aux puces(market of flea) 「蚤の市」と呼ぶようになったというのが名前のいわれである。

似たものついでに、バッタもんとは「正規の流通ルートで仕入れたものではないもの」あるいは偽物を指す。

この「バッタ」には多くの説があるが、説得力のあるものを幾つか紹介したい。

不況などでバタバタと倒産した商店の品物を、一括で大量に安く買う業者を「バッタ屋」といい、そこからバッタもん(物)というようになったという説、

バッタがいそうな道端で拾ってきたような物を売るからという説、場当たり(バッタ)的に入手した物を得るからという説、バッタのようにあちこちに店を移転するからという説等。それぞれさもありなんという感がする。

空を飛ぶ点では似ているセミ。意外なことにカメムシ目セミ科の昆虫。

ミンミンゼミ、ニイニイゼミとか、鳴き声から命名されているものはわかりますい。

一方アブラゼミは、羽根の感じが油紙に似ているからという説や、鳴き声が油を熱したときに撥ねる音に似ているからという説がある。

どことなく物悲しさを感じるヒグラシの鳴き声。子どもの頃、山で聞くこの鳴き声が夏休みの終わりを予感させ、一抹の寂しさを覚えた。

ヒグラシとは、日暮れ時に鳴くことから「日暮らし」と名付けられたそうである。

羽根があるついでに、嫌われ者のゴキブリについて。

明治時代までは「ゴキカブリ」と呼ばれていた。漢字では御器噛と書く。今でも関西では「ゴッカブリ」と呼ぶ地域もあるようだ。これは何にでもかぶりつくという意味で、蓋つきのお椀(=御器)をかじる虫という意味から来ている。ゴキブリの異名には「コガネムシ(=黄金虫)」というのもあり、「コガネムシは金持ちだ」という童謡の「コガネムシ」はゴキブリを指し、ゴキブリが増えることは財産家の証しという言い伝えがあったようである。

話はより上空を飛ぶ鳥に移る。

トビ職(鳶職)とは、トビのように優雅に高いところを飛び回るからついた名前ではない。彼らが持っている鳶口に由来する。鳶口とは、トビのくちばしに似た爪を先端に付けた長い棒のことで、木を引き寄せたり消火作業等に使われていた。

「獲物になる」「食い物にされる」ことを、「カモになる」「カモにする」という例えはどこからきたのか。

カモの代表格であるマガモは、形も大きく味も良く、さらに数も多かったためとても捕まえやすく、料理にはもってこいの材料だったことからこの表現が生まれたようである。

また、鴨肉は多少の癖があるため、甘みのある冬ネギと合わせると相性が良かったことから、良い話にさらに好条件がつくことを「カモがネギ背負ってくる」と言うようになったとか。

さて、鳥にやや似ているコウモリについて。

「あいつはコウモリだから」といった比喩に使われることがある。

これは、イソップ童話の「卑怯なコウモリ」からの引用である。獣一族と鳥一族の戦争で、前者が優勢のときは「私は全身に毛が生えているから獣の仲間です」と言い、後者が優勢似なると「私には羽があるから鳥の仲間です」と言って、最後に双方から卑怯者扱いされたという話から、態度のはっきりしない卑怯者を指す比喩となった。

ちなみにウィルスの自然宿主によくコウモリが挙げられるが、行動範囲が広いこと、冬に冬眠しウィルスを温存させやすいこと、温度変化の少ない不潔な環境に暮らすこと等が原因とされている。

それにしても、COVID-19の1日も早い収束を願うばかりである。

最後になぜか羊羹について(実は何を隠そう私の好物である)。

「羊羹」の「羹」は訓読みで「あつもの」と読み、とろみのある汁物を指す。中国では「羊羹」という言葉は羊の肉やゼラチンを使ったスープを示す。

日本には、鎌倉から室町時代に中国に留学した禅僧によって点心(食事と食事の間に食べる間食)の一つとしてもたらされた。しかし、禅僧は肉食が禁じられていたため、小豆や小麦粉、葛粉などの植物性の材料を使い、羊肉に見立てた料理がつくられたそうである。

立花隆著「思考の技術」から

コロナ禍で家での生活が増えた分、たくさん本を読むことができました。

その中で、立花隆著「思考の技術」を一部ご紹介し、私なりの感想を書き添えたいと思います。

ちなみにこの著書の原著は1971年に出版されたものですが、その後再編集して今年新たに出版されたものです。内容のほとんどは半世紀前のままですが、現在なお光り輝いています。

新型コロナウィルスとの共存が強いられる中、ご自身の生活や生き方の参考になればと思います。

「寄生者」が暴れた時、人は「病気」になる

自然界から寄生という現象を排除して考えることはできない。あらゆる生物が寄生者を持つと考えてさしつかえないほどである。寄生者を持たない生物をさがすには、バクテリアのレベルまで下らなくてはならない。

たとえば一羽の鳥をとりあげてみる。そこには幾種類かのダニ、シラミ、ノミ、ヒル、条虫、尖頭蠕虫せんとうぜんちゅう、回虫、吸虫、眠り病虫、舌形類、らせん菌、鞭毛虫、アメーバといった寄生者がたかっているのが普通である。その種類の多さについては、56種類の鳥の巣を調べたところ、ダニなどの節足動物だけで529種類もいたという報告がある。また数の多さについては、1羽のダイシャクシギから、1000匹以上のハジラミが見つかったという報告がある。

人間については、文明国ではノミもシラミも退治され、回虫などの寄生虫もほとんどなくなっているから、寄生者は求めるのがむずかしいだろうと考える人がいたら誤りである。人間の体内にも、いたるところ寄生生物がいる。消化器官、分泌腺、肺、筋肉、神経などにウヨウヨいる。寄生者とは、必ずしも回虫、ジストマなどの大型生物だけをさすのではない。大腸菌のような菌類も含むのである。

人間はふだんはこうした寄生者のことを気にもとめていない。ときどき寄生者が、ただ寄生していることに甘んぜず、人体の組織や器官の働きを壊しにかかることがある。このとき人間は病気となり、その寄生者は病原体と名づけられる。そして、人間は病原体を追い出すためにやっきとなる。

(感想)

寄生虫というと狭い意味での寄生生物を指しますが、ウィルスやバクテリア等、広い意味での寄生生物はいたるところに棲息しています。そして通常は、それらが絶妙なバランスを保っているため、ことなきを得ています。ところが、抗生物質で病気の原因菌を退治しようとすると、その菌のみならず他の菌も死滅することがあります(大抵そうなります)。すると、その抗生物質の影響を受けなかった菌が空いたスペースに異常繁殖し、新たな病気を引き起こす場合があります。菌交代現象、あるいは日和見感染と言います。

 

疫病が終焉しないのは、都市があるから

病気は寄生者のおごりによる失敗である。巧みな寄生者は、宿主を殺さない程度に甘い汁を吸いつづける。宿主を殺してしまっては、自分も死なざるをえないからである。

病原体微生物は、たびたび猛威をふるって疫病を流行させたことがある。しかし、いかなる疫病もそう長続きするものではない。宿主の死につき合っていれば自分も死ぬ。宿主が死なないうちに、別の宿主のところに移動しようと思っても、周囲の人間がバタバタ倒れて生息密度が低くなっているので、それもできない。ということで、疫病は終焉するのである。病原体微生物による病気は古代からあった。しかし、それが流行病となったのは、人間が都市をつくり、人口密度を増加させ、寄生者が宿主の間を移動しやすい環境をととのえてやったからである。

家畜や農作物の間には、豚コレラ、ニューカレドニア病、イモチ病といった流行病がやたらと発生するが、自然林や自然草原の動植物の間には別に流行病が発生しないのも同じ理由による。家畜や農作物のために人間が作ってやった単一の環境は、病原体微生物にとっても、心地よい環境なのである。

寄生という現象を広義に解釈してみる。すると、人間の自然界における位置も寄生者にすぎないことがわかる。

人間という寄生者は、自然という宿主に寄生しているのであるから、自然を殺さない程度に利用すべきなのである。病原体微生物のように、宿主の生命を破壊するという愚を犯してはならない。宿主を変えようにも変えることができないからである。すでに地球自然は病みつつある。このへんで、毒素の排出を人間がやめないと、元も子もなくなりそうである。

(感想)

現在、新型コロナウィルス感染収束に見通しの立たない状況が続いていますが、このウィルスもいずれは弱毒化したものだけが残り、宿主である人間の命を奪わない程度に静かに共存するようになるでしょう。ただ、ここで述べているように、密集しすぎた環境は疫病の感染が広まりやすいので、注意が必要です。また、人間も地球(地球を生物ととらえて)にとっての寄生生物である以上、宿主を死滅させるような愚は侵してはいけないし、それが結果的に人間という種を守ることでもあるのです。

 

進歩の方向と速度を考え直せ

生態学の観察する自然界での速度は正常な変化であるかぎり緩慢である。生物は、あるスピード以上の変化には、メタボリズム機能の限界によってついていけなくなるからである。

進歩という概念を考え直すに当たって、生態学の遷移という概念が参考になるに違いない。遷移のベクトルを考えてみる。その方向は系がより安定である方向に、そしてエネルギー収支と物質収支のバランスの成立の方向に向けられている。その速度は目に見えないほどのろい。なぜなら、系の変化に当たって、それを構成する一つ一つのサブシステムが恒常状態(ホメオスタシス)を維持しながら変化していくからである。自然界には、生物個体にも、生物群集にも、そして生態系全体にも、目に見えないホメオスタシス維持機構が働いている。

文明にいちばん欠けているのはこれである。それは進歩という概念を、盲目的に信仰してきたがゆえに生まれた欠陥である。進歩は即自的な善ではない。それはあくまでも一つのベクトルであり、方向と速度が正しいときにのみ善となりうる。

いま、われわれがなにをさしおいてもなさねばならぬことは、このベクトルの正しい方向と速度を構想し、それに合わせて文明を再構築することである。

(感想)

生物は本来、恒常性の維持(ホメオスタシス)といって、自身が対応できるある範囲内の変化はありつつ、その範囲を超えた場合、異常と感じます。ゆっくり時間をかけての緩やかな変化はホメオスタシスで対応できますが、急激な変化は異常と感じ、正常に戻そうとします。人類の文明の速度は、ホメオスタシスの範囲を超えているということでしょう。その変化の速度は生態学的に正常なのか、また変化する方向は間違っていないのか、自然と対話しながら自然への致命的なダメージを与えない方向を探っていかなくてはならないのでしょう。

-立花隆『新装版 思考の技術』(中公新書ラクレ)からの引用と感想-

 

金木犀

かつては運動会のシーズン、といえば風物詩として金木犀の香りが挙げられました。最近の小学生は、金木犀の香りからトイレを連想するそうです。芳香剤メーカーの勝利なのでしょうか。

以前にもお話ししましたが、拙宅の敷地内には金木犀、隣家には銀木犀の大木があります。個人的には、銀木犀の高貴な色と香りが好きですが、双方同時に開花するため、どうしても三大香木の一つである金木犀の香りに負けてしまいます。

今年はコロナ禍で、運動会の開催もままならないんでしょうね。

この状況は、育ち盛りの子供たちに、少なからぬ影響を与えると思います。

でも人類は、それをプラスに変える英知を持っているはずです。

そうやって、生き抜いていきましょう。

 

小さい秋

かつては、「小さい秋」というと、晩夏ふとした風の涼しさに秋の気配を感じたものでした。

最近では9月は秋というより晩夏です。前半は、最高気温30℃以上の日が続きます。

今後地球はどうなってしまうのでしょうか。私は余生概ね20年から30年でしょうが、次の世代、そしてその次の世代に対して、どう「正」の遺産を残せるのでしょうか。考えると申し訳なく、そして空恐ろしくなります。

地球のキャパシティに対して、人間の影響力があまりにも大きくなってしまったのでしょうか。世代交代に際し、人間の理性や人格が積算されないのに、科学技術は蓄積し、飛躍的に高まっています。核というとんでもない技術を手にしても、その、人類にとっての有効利用を知らないのが現状です。

「猫に小判」「豚に真珠」ならまだよかったかもしれません。

猫が核兵器の発射ボタンを、豚がスカッドミサイルの発射ボタンを持ってしまったのです。

世代をまたいで理性が蓄積できたらと思うと、なんだか虚しくなります。

そんな、人間社会の行方とは関係なく「暑さ寒さも彼岸まで」、とにかく暑い夏が終わろうとしています。

アキアカネは、来年もまた同じ姿で我が家の庭に来てくれるのでしょうか。

そうだったのか語源㉔   -動物にまつわる言葉 その1-

今回は、昆虫も含め動物をターゲットとしてみたい。

そもそも植物に対する動物とは、と言う前に、まずは両者の共通点を確認しておきたい。

単刀直入に言うと、糖を燃焼させることにより代謝に必要なエネルギーを得ること、である。

違いは、植物はこのエネルギー源である糖を自らの代謝システムで作り出すことができるのに対し、一方の動物は、他の生物(植物、生物)を摂取し同化(吸収し、栄養とする)することで、そこから得た糖をエネルギーとする。

まずは、人間にとって馴染みのある動物の代表、イヌから始めたい。

「犬」という漢字は、耳を立てたイヌを横から見た姿を表したれっきとした象形文字である。似ているものの「大」とは全く関係がない。

犬死という言葉がある。

イヌは古来より、「家臣、家来」に意味を持っていた。

家臣は忠義のため、時として主君のために死ななくてはならなかった。

一方主君、あるいはひとかどの武士は、そう簡単には死ねない。

「ひとかどの武士は、そんな家来のような死に方はできない」という意味から、「家来のような死に方」を犬死と言うようになったそうである。たぶんにヒエラルキーの匂いがする。

このように、「イヌ」には(主君から)一段下に見た意味で使うことがある。

イヌツゲ、イヌタデ、イヌマキ、イヌビワ等、本来の植物から見て役に立たない、あるいは劣っているという意味で用いられるようである。一説には、「否(いな)」から「イヌ」に転化したとも。

次に、同様に馴染みのあるウマにまつわる言葉について。

「馬耳東風」にある馬とはいかに。

前者は、中国唐の詩人李白の「世人之を聞けば皆頭を掉(ふ)り、東風の馬耳を射るが如き有り」という詩に由来している。東風とは春風のことで、人は春風が吹けば寒い冬が去って暖かくなると思って喜ぶが、 馬は耳をなでる春風に何も感じないという意味である。ウマが本当に春風を感じないかは定かではない。

同様の意味で「馬の耳に念仏」という諺があるが、ありがたい念仏を馬に聞かせても理解できないから無意味ということだろうが、それならウマでなくてもネコやブタでも良さそうなものである。と思いきや、似たようなものに「猫に小判」「豚に真珠」というのがあった。組み合わせは、「馬に小判」でもまんざら見当違いとは言えまい。

タヌキ、キツネは、昔話や童話にもよく登場する。

これらの動物を比較対象とした時、どんなイメージが浮かぶだろうか。

双方ともイヌ科の動物だが、タヌキはお人好しで少し間がぬけている、一方のキツネは小利口で意地悪なイメージだろうか。顔の形と体つき、そして身のこなし方から来るのかもしれない(タヌキはたれ目ではないが、目の周りの模様でそう見えるだけ)。

タヌキは漢字で獣偏に里と書くが、雑食性でまさに里山といった、人間のテリトリーに近いところに棲息する。一方のキツネの語源は諸説あり、その一つは、「きつ」は鳴き声から、「ね」は接尾語的に添えられたものとされる。また、「き」は「臭」、「つ」は助詞、「ね」は「ゑぬ(犬)」が転じたもので、臭い犬の意とする説、「きつね(黄猫)」の意とする説、体が黄色いことから「きつね(黄恒)」とする説など、諸説ある。

日本の神話ではキツネは神聖なもの、イソップではキツネは狡猾なもの、といった固定概念はあるようだ。

神道では、「神使はしめ」と言ってキツネを稲荷神の使いの動物としている。このへんから、キツネは昔から特殊な能力を持っている動物として扱われている。「狐憑き」などは、このあたりと関係ありそうである。

さて、馬鹿とは「梵語のmoha =慕何(痴)、またはmahallaka =摩訶羅(無智)の転で、僧侶が隠語として用いたことによるという」と説明されている。

ただ、なぜmoha =慕何、mahallaka =摩訶羅が、バカになるのかという疑問は存在する。他にも、漢字で「破家」と書き、これは家財を破るの意で、家財を破るほどの愚かなことの意からという説である。また、中国の史書『史記』には、秦(しん)の始皇帝の死後に丞相(じょうしょう)となった宦官(かんがん)の趙高(ちょうこう)が、おのれの権勢を試すために、二世皇帝に鹿を献じて馬だと言い張り、群臣の反応を見たという話によるという説もある。

さて、やや堅苦しい故事で、「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」というのがある。「えんじゃく いずくんぞ こうこくの こころざしを しらんや」と読む。

中国前漢時代(紀元前206年~8年)の歴史家・司馬 遷(しばりょう)が編集した歴史書で、正史「二十四史」の「史記(しき)」に残っている。

「燕雀」とはツバメとスズメで庶民を指し、「鴻鵠」とはコウノトリとハクチョウのことで大鳥を象徴でしている。要するに、ある地位にいる者の気持ちや志は、庶民には理解できまいといった、これも多分にヒエラルキーの匂いのする諺である。

ある政権が任期の終焉を迎え、実績が伴わなくなると、レームダック=lame duckという表現が使われる。直訳すると「足の不自由なアヒル」であるが、役立たずの政治家や、死に体を表す。もともとは、ロンドンの株式市場で大損した人を指したらしいが、足が悪く群れについて行けず、外敵の餌となる運命のアヒルを例えたもので、「先が見えている」というニュアンスが感じられる。

身代わりになることをスケープコート=scapegoatという。

scapegoatは “the goat allowed to escape”、直訳すると「追放されたヤギ」となるが、贖罪(しょくざい)のヤギを指す。古代ユダヤでは贖罪の日にヤギに人々の罪を負わせ, 野に放ったことからできた言葉である。

似ている言葉にsacrifice=生贄(いけにえ)という言葉があるが、厳密には身代わりとは異なり、「捧げる、神聖なものとして拝する、不死にする」という意味のラテン語“sacrare”に由来している。

チキン=chickenは鶏で、特に若鶏やヒヨコを指すが、形がそれと分かれば鶏肉も指す。

ちなみに英語では、動物のオスとメスで、呼び名が異なる場合がある。

雄鶏はcock(あるいはrooster)で雌鶏はhen、クジャクもオスはpeacockでメスはpeahen、ライオンもメスライオンはlioness、牛のオスはox(あるいはbull)、メスはcowとなる。

また、有名なミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」の「ドレミの歌」の一節「Doe, a deer, a female deer」でも、雄ジカはdeer(あるいはシカの総称)で雌ジカはdoeとなっている。これが「ドレミ」の「ド」である。

bullが出たついでに、金融業界で使われる言葉に、ブル(bull)とベア(bear)というのがある。ブルは雄牛の意で、角を下から上に突き上げることから上昇相場を表し、一方のベアはクマで、爪を上から下に振り下ろすことから下落相場を表す。ちなみに、春闘で聞くベアとは「ベースアップ」の日本語独自の略語である。

日本語のワニに相当する英語には、クロコダイル= crocodileとアリゲーター=alligator、そしてガビアル(ガビエル)=gavial=がある。

クロコダイルが大型のワニ、アリゲーターはそれより小型のワニ、ガビアルは口の細長いワニを指す。さらにクロコダイルとアリゲーターの違いを言えば、鼻先がV字に尖っている、牙が顎から飛び出している、体を持ち上げて歩くのがクロコダイル、鼻先が丸みを帯びている、牙が顎の中に収まっている、そして体を引きずって歩くのがアリゲーターとなっている。だが、ワニと遭遇しパニックになっているとき、パッと見ただけでどのワニかすぐに区別できるかは疑問である。「ワニ図らんや」である。

同じく川に生息する動物にカバがいる。

カバは英語で hippopotamus だが、お恥ずかしい話、これまでずっとhypopotamusだと思い込んでいた。己の過ちを他に転嫁してはならないが、これは学生時代、解剖学で視床下部をhypothalamusと学んだことによる弊害である。hypo-は下の意、thalamusは視床を指す。potamosはギリシャ語で川の意で、川の下(中)に棲んでいるからと、勘違いしていた。実はhipposは馬で「川に棲む馬」という意味のようである。日本語でも漢字で「河馬」と書く。ちなみに、英語ではカバのことを通称hippoと呼ぶ。

ちなみに、脳に記憶に関わる「海馬」(イタリア語:hippocampus)という部分がある、hippoはウマ、campusは海の怪物を指し、つまり前がウマで後ろが魚の怪物のことで、この後半の形が似ているところから名付けられたようである。別に、海馬はタツノオトシゴ、またトド等アシカ科の動物の総称を指す場合もある。

怪物との関係は微妙であるが、dinosaur=恐竜について。

ギリシャ語の”deinos” (巨大な)と “sauros”(トカゲ、あるいは爬虫類)からの造語である。

日本語では、「とんでもなく(恐ろしく)偉大なは虫類」と命名した。 その「恐ろしく」という副詞が、「恐ろしい」という形容詞にすり替えられて、「恐竜」という言葉が生まれた。

ここの名前では、「–ザウルス」という接尾語がつく場合は、dinosaurの形容詞がついた名前と考えれば良い。

一方で、「—ドン」という接尾語の場合は、ギリシャ語のodont=歯に由来し、歯に関係しているものが多い。

イグアノドンは、「イグアナの歯」という意味で、その歯の形がイグアナのそれに似ているために命名されたという。

ちなみに翼竜のプテラノドン=ラテン pteranodonも名前にodon-が入るが、この場合は少し意味が異なる。ギリシャ語のpteron=翼と否定辞のan-、「歯」のodont-とから成っているため、プテラノドンは「翼はあるが歯はない恐竜」という意味である。ちなみに解剖学では、頭蓋骨の蝶形骨翼状突起はラテン語でProcessus Pterygoideusで、pteronと同源である。

その他、トリケラトプスなど、「—オプス」とつくものも多く存在している。こちらは、ōps =顔を意味しており、顔に特徴があるのが共通点だといえる。

トリケラトプスは、ギリシャ語のtri-=3、kéras=ケラス、ōps=オプスという3つの語から成り、「3つの角の顔」という意味である。

角質のことを「ケラチン」というのは、ケラスと同源である。

恐竜と繋がりがあるとすれば大きいところだろうか、工事現場の重機の名で、あまりに日常に溶け込みすぎて、語源が意外なものがある。

まずクレーン。英語ではcraneと書き、元々は鳥のツルのことである。確かに腕の部分がツルの首、資材をつかむ部分がツルのくちばし、長い腕がツルの首に似ている。

そしてキャタピラ。ブルドーザーなどのタイヤにあたる部分だが、日本語では無限軌道という。その意味ではタイヤも無限軌道の一つと言えなくもないが、ここで拘泥するのはやめよう。英語でcaterpillarと書き、元は毛虫、イモムシのことである。イモムシの無数の足が動くのに似ているので合点がいく。

指で長さを測るとき、親指と人差し指をコンパスのようにして広げては閉じてを繰り返す。ちなみに私の場合は17cmである。これとよく似た動きをする虫を、日本語では尺取り虫という。英語でもinchwormという。ウォームギアのwormもイモムシやミミズのことで、確かに動きは似ている。

さて、蝶は英語でバタフライ=butterflyというが、このバターとは何を意味するのか。

諸説あるが、魔女が蝶の姿になってバターやミルクを盗むという一説、また蝶の排泄物の色がバターに似ているからという説もある。

前者にはロマンを感じ、後者には現実的な観察眼を感じる。

欧米人は、とにかく百獣の王ライオンが好きらしい。

先にも触れたが、英語圏ではオスとメスで呼び方が異なり、ライオン一般とオスライオンはlion、めすはlionessである。

Leo-はネコ科の動物を指すらしい。ヒョウはleopardだが、ダ・ビンチも含め、とにかく欧米ではLeonard Leopold Leonid等、Leo-という、ライオンにちなんだ名前がとにかく多い。強さや権威の象徴といえよう。

ライオンと並んで、欧米でよく使われる名前に、ハトがある。

日本でも鳩山、鳩といった名字があるにはあるが、さほど多くはない。

が、日本のことを大和と称するように、コロンビアという名は、アメリカの別称・雅称として多用されている。これは、アメリカ大陸の発見者、クリストファー・コロンブスに由来する。語源のColomboは、イタリア語で「ハト」を意味する単語である。

その他、「コロンビア」は国名やアメリカのコロンビア特別区にも、また、スリランカの首都、そしてドラマの「刑事コロンボ」にも派生語は使われている。平和のシンボルとして名付けられたのではないだろうか。

ただ、スリランカのコロンボの場合、名称の由来はシンハラ語で「マンゴーの樹の茂る海岸」を意味する「Kola-amba-thota」がポルトガル語でのクリストファー・コロンブスの名であるコロンボに置換えられたものだという。