ここのところ寒い日が続いていましたが、冬至を過ぎた頃から、なんとなく日の入りが延びたような気がします。それだけでも少し、気持ちが前向きになります。
三箇日も今日で終わりという日の昼下がり、外で賑やかな小鳥の声がしたので急いで出てみると案の定、メジロでした。
次から次へと現れ、10羽くらいにまでなりました。メジロは動きが早く警戒心が強いのでなかなか近くに寄れないのですが、なんとか3羽一緒に撮ることができました。私にしてはラッキーでした。
良い年になると良いのですが。
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ここのところ寒い日が続いていましたが、冬至を過ぎた頃から、なんとなく日の入りが延びたような気がします。それだけでも少し、気持ちが前向きになります。
三箇日も今日で終わりという日の昼下がり、外で賑やかな小鳥の声がしたので急いで出てみると案の定、メジロでした。
次から次へと現れ、10羽くらいにまでなりました。メジロは動きが早く警戒心が強いのでなかなか近くに寄れないのですが、なんとか3羽一緒に撮ることができました。私にしてはラッキーでした。
良い年になると良いのですが。
美しい日本語が続くが、今回は徒然なるままに思い当たる言葉として、まずは「面影」について。
「面」は表(おもて)で、そのままの見える顔そのものを指し、一方「影」は光の当たらない暗い部分を指す。つまり、なにか実物とは違う間接的な像、つまりそこに想像力の入り込む余地があるように思われる。これが転じて、「目の前にあるものから思い出される様子」や「記憶の中にある顔かたち」を意味するようになったと考えられる。深い言葉である。
ちなみに、英語ではone’s face(顔について)image traceなどがその訳として当てられているが、これらの単語の中に、日本語の「面影」のような微妙な意味合いが含まれているように感じ取れないのは、私が単に英語に造詣がないためだろうか。
日本語的に美しい言葉に「ひとしお」がある。
もともとの状態に比べ、さらに程度が増すことを表す言葉である。
漢字では「一入」と書くが、これは染物を一度染料に浸すことが語源とされている。染料に浸すたびに色が濃く鮮やかになっていくことから「一入」で、二回浸すことを「再入(ふたしお)」、さらに何度も浸すことを「八入(やすお)」と言うそうである。
次は、日本語の真髄のような言葉、「ゆかしい」について。
「ゆかし」という古語は「行かし」から来ており、「行かし」とは「そこに行ってみたい、知りたい」が本意で、心がそこに惹かれる様を表現している。現代では「奥ゆかしい」という使われ方がほとんどだが、その通り「奥まで行ってみたい、奥義まで知りたい」という意味である。全てをさらけ出しては、さらに知る由もなく興味が止まってしまう。一部分しか見せない、知らせないがためにそこに想像力が働く余地がある、これは日本画にも通じる余白の世界で、日本人ならではの感性ではないだろうか。
西洋画は背景を含め、全て彩色する。音楽も、音符が表現するものが全てである(もちろん、解釈によって異なる部分もあるが)。それが全て、眼前の視覚、聴覚等、五感に訴えるものが全てであり、人間が感覚的に捉えたものが絶対的な真実であるという、ルネッサンス期の西洋文化の真髄たるものが凛として存在する。絶対的な真実を探求する知的好奇心がルネッサンス文化を作ったと言っても、あながち的外れではあるまい。
それに比べると、日本の文化はやはり根本的に違うように思える。
以前にも触れたが、左右非対称の美、未完成の美、つまり変化、発展する余地を残した美が日本文化にはあるような気がする。余白を残し、墨の濃淡のみで情景を表現する水墨画や回遊式庭園、建築では桂離宮の美しさはまさにこの代表と言えまいか。
次に「さりげない」という言葉について。これも、先の「ゆかし」と通じる、日本人の感性を象徴するような言葉である。
「さりげ」は本来は「然りげ」と書き、「さ」と「ありげ」から転じた言葉で、「そのようでありそうな」「(いかにも)それらしい」という意味である。
そこから「さりげない」は、意図を感じさせないように行う様子をいう。さらに、これといった目的を持たない、何気ない様子を表現することもある。
最近では、意図はあるもののそれを感じさせない、あるいはそれを悟らさせない巧妙な仕草を指すようにも思える。
さて、「よろしく」という言葉は日常的に実に多くの場面で使われ、意味も一筋縄ではいかない。これはもう、美しいというより難しい日本語の範疇に入るものであろう。この言葉は副詞だが、元となる形容詞の「よろしい」から。
これは漢字では「宜しい」と書く。広義では「よい」だが、「結構だ」「好ましい」から、「許容できる(かまわない)」「ちょうどよい(適当だ)」「承知した」等、色々な使われ方をする。共通するのは、及第であるという概念だろうか。
そこから派生した「よろしく」は、「適当に(うまく)」だが、人に何かを頼むときに添える言葉でもある。「◯◯さんによろしく」のように、相手に、別の人への好意をうまく伝えてもらう場合にも使われる。やや変わったところでは、上につく名詞に続けて、「いかにもそれらしく」の意味で使われることもある。
最後の使い方以外は、「よろしい」から派生した言葉であることは理解できる。
歌に出てくる言葉にも美しいものがある。
「埴生の宿」の「埴生」とはこれいかに。
「埴生」は、「埴(はに)」のある土地を指す。「埴」は「埴輪」からも想像できるように、土、あるいは粘土を指し、床も畳もなく土がむき出しになったいわば土間だけの状態で、そのような粗末な家を「埴生の宿」と表現した。「埴生の宿も我が宿、玉の装い羨(うらや)まじ」と続く。後半は、「豪華な装飾も決して羨ましくはない」という意味である。実はこの曲、イングランド民謡の「Home! Sweet Home!」(日本語訳:楽しき我が家)が原曲である。この歌詞は直訳ではなく意訳で、日本語としても美しい歌詞となっている。
「蛍の光」もスコットランド民謡「Auld Lang Syne」(スコットランド語)が原曲で、英訳では「times gone by」で、「過ぎ去りし懐かしき昔」などと和訳されている。「蛍の光」が別れの歌であるのに対し、「Auld Lang Syne」は旧友との再会を喜び、昔を懐かしむ歌詞となっている。
さて、この「蛍の光」の歌詞は4番まであるが、一般的には2番までが歌われる。
1番は、
「螢の光窓の雪、書(ふみ)讀む月日重ねつゝ、何時(いつ)しか年もすぎの戸を、開けてぞ今朝は、別れ行く」
2番は、
「止まるも行くも限りとて、互(かたみ)に思ふ千萬(ちよろず)の、心の端を一言に、幸(さき)くと許(ばか)り、歌ふなり」
1番でわかりにくいのは、「何時しか年もすぎの戸を」ではないだろうか。もっと絞れば「すぎ」の部分で、これは「いつしか年月も過ぎてしまった」と「杉の戸を開けて」の掛詞である。檜(ヒノキ)の戸では洒落にならないのである。
2番では、「限りとて」は「今日限りである」の意、次の「互に思ふ千萬の心の端を」は「お互いを思う何千何万の気持ちを」、「幸くと許り」は「どうか無事でいてねとの思いで」となる。
次に、「イロハニホヘト—」について。
物事の順番を表すのに、「123—」(数詞)「abc—」(アルファベット順)、そして日本では「アイウエオ—」(50音順)「イロハニホヘト—」等がある。
前の3つは順番として規則性を感じるが、「イロハニホヘト—」はやや異質ではないだろうか。イロハ順と言われている順番である。
これは、平安時代末期に流行した「いろは歌」がもととなっている。「いろは歌」とは、七五を4回繰り返す歌謡形式に則り、さらに仮名一字を1回ずつ使うという制約の下で作られている。
江戸時代までは、一般的にはイロハ順が使われていた(50音順は、主に学者らの間で使われていたそうである)。ちなみに現在では、公文書には50音順を使うことと定められている。
イロハは音名(階名)にも当てはめられ、イタリア式表記の「Do Re Mi Fa Sol La Si」(ド レ ミ ファ ソラ シ)、英語式表記の「C D E F G A B」を日本では「ハニホヘトイロ」とした。ハ長調、ト短調といった具合に。
さて、「イロハ—」の全文は、
「いろはにほへとちりぬるをわかよたれそつねならむうゐのおくやまけふこえてあさきゆめみしゑひもせすん」で、元歌は、
「いろはにほへど ちりぬるを わがよたれぞ つねならむ うゐのおくやま けふこえて あさきゆめみじ ゑひもせず」である。
イロハ順は濁点を取っている。元歌を漢字を入れて表わすと、
「色は匂へど散りぬるを 我が世誰ぞ常ならむ 有為の奥山今日越えて 浅き夢見じ酔ひもせず」
最後の「ん」は使われていない1文字を入れて、48文字とした。
歌の意味は、
「色は匂へど散りぬるを」→「香り豊かで色鮮やかな花も、いずれは散ってしまう」
「我が世誰ぞ常ならむ」→「この世に生きる誰しもが、いつまでも変わらないことなぞない」
「有為の奥山今日越えて」→「無常で有為転変(=有為無常:常に変化しとどまるところを知らない)の迷い、その奥深い山を今乗り越えていく」
「浅き夢見じ酔ひもせず」→「悟りの世界に至ればはかない夢など見ることなく、仮想の世界に酔うこともない安らかな心境である」
となる。まるで平家物語の冒頭の「祇園精舎の鐘の声—」のようで、実に深い悟りの境地が込められている。「大乗仏教の悟りを表した歌」との解釈もある。
しかも、一語の重複もなく読まれていることに驚嘆するばかりで、ただ順番を表わすだけに使われるには、あまりにもったいない。
最近の日本列島は洪水や氾濫、鉄砲水等、水による被害が多くなっている。温暖化の象徴的な現象なのかもしれない。
それでも、世界的にみれば水が比較的容易、安価に手に入る日本において、その源である雨について。
この雨には実に様々な表現があり、ある辞書によると1200ほどあるとか。
いくつか、目についた表現を取り上げてみたい。
気象予報でもポピュラーな「にわか雨」は、急に降り出して短時間で止む雨のことをいう。
では似た表現で「通り雨」とは。さっと降ってすぐに止む雨と説明されているが、にわか雨との違いは降ったり止んだりを繰り返す、つまり断続的なものが「通り雨」となっている。ちなみに気象用語ではこの表現は使われず「時雨(しぐれ)」という。
「にわか雨」「通り雨」とも、積乱雲から突然降り出す「驟雨(しゅうう)」という雨の範疇に入る。
「五月雨(さみだれ)」は、旧暦の5月に降る長雨、つまり現在の梅雨を指す。
ついでに「さみだれ式」とは、この雨のように、途中で中断を挟みながらもだらだらと続く様子を言う。
「土砂降り」が、大粒の雨が激しく降る、いわゆる豪雨をさすことには異論はなかろう。あとは「土砂」だが、ひとつには土砂を跳ね飛ばすような勢いからという説と、擬態語の「ドサッ」と「降る」を組み合わせたもので、「土砂」は当て字とする説がある。
雨と雪が混ざって降るものを「みぞれ」といい、漢字では「霙」と書く。雨冠は空から降るものを表し、旁の「英」は花や花びらを意味することから、花びらのように雨よりゆっくり降ってくる様を指しているものと考えられる。
ちなみに、「氷雨(ひさめ)」とは冬季に降る冷たい雨を指すが、雹(ひょう)や霰(あられ)といった空から降る氷の粒を指すこともある。
霧雨(きりさめ)は文字通り、霧のような細かい雨(厳密な気象用語では雨滴の直径が0.5mm未満)を指すが、別名小糠雨(こぬかあめ)とも呼ばれる。
さて、「夕立」は夏の午後から夕方にかけて降る激しい雨を言う。
もともとは、雨に限らず風や波、雲などが夕方に起こることを「夕立つ(ゆうだつ)」と言い、それが名詞化したという説が有力である。
ところで、日が照っているのに急に降り出す雨のことを「天気雨」、あるいは「狐の嫁入り」、日照雨(ひでりあめ)と言う。
この曰くありげな「狐の嫁入り」だが、一般的には、夜の山中や川原などで無数の狐火(冬から春先にかけての夜間,野原や山間に多く見られる奇怪な火)が一列に連なって提灯行列のように見えることをいい、狐が婚礼のために提灯を灯しているという伝説がある。昔は、夜に提灯行列などがあると、それは大抵が他の土地からやって来る嫁入りの行列だったいう。一方、近所で嫁入りなどがあると、誰でも事前にそのことを知っているので、予定にない提灯行列は、狐が嫁入りの真似をして人を化かしていると言われていたようである。
つまり、予測なしに、あるいは予測できずに降ることがこの伝説にちなんだのか、あるいは晴れているのに雨が降るという、狐につままれた様を指すのか詳細は定かではないが、根拠として全くの見当外れではあるまい。
梅雨(つゆ)も日本らしい言葉だが、起源はどうやら中国らしい。
梅雨は、春から夏への季節の変わり目に停滞前線(梅雨前線)の影響で雨や曇りの日が続く気象現象を言う。中国の長江下流域で梅の実が熟す頃に降る雨が語源との説が有力である。
日本ではこの他に、梅雨に似た長雨に三つ名前がついている。
菜種梅雨(なたねづゆ)、すすき梅雨、山茶花梅雨(さざんかづゆ)と呼ばれている。
順に、菜種梅雨は菜の花の咲く頃の長雨を指すが、いろんな花の咲く時期と重なるので催花雨(さいかう)とも呼ばれる。日本的な美しい命名である。
次のすすき梅雨は比較的時期の幅があり、8月下旬から10月上旬までの長雨を指す。
すすきの季節に降る長雨という意味だが、「秋の長雨」あるいは秋霖(しゅうりん)の別名もある。
最後の山茶花梅雨は晩秋から初冬、つまり11月下旬から12月上旬に降る長雨を言う。名の通り、山茶花の花の咲く頃の長雨の意である。名前に「花」がつくものの、この長雨は気温も下がり日も短くなる頃に降る雨で、心なしかうら寂しい響きがある。
これらはどれも、日本的季節感のにじむ呼び名である。
その他、感謝を込めた雨の呼び名もある。
慈雨、あるいは「恵みの雨」は、万物を潤し育てる雨を言う。別に「甘露の雨」の表現もある。
「干天の慈雨」とは、日照り続きの時に降るありがたい雨の意だが、転じて、困っている時に差し伸べられる救いの手の比喩としても使われる。
個人的には今回のメインのテーマと思っている「別れの言葉」について。
状況を問わず、最も頻用される別れの言葉は「さようなら」。
「然様(さよう)」は「然様でございます=そのようです、そうです」のような表現にも使用されるので、前に起きた特別なことを表現するというよりは、前提として起きたことを含めてのクッション(言葉の印象を和らげる)言葉的な意味合いで使用されることが多いようである。
ということで、別れの挨拶である「さようなら」つまり「然様なら」は、「用事が完了したので」や、「そろそろいい区切りなので」というような意味合いで使われ、より現代的な口語に言い換えるならば、「そろそろバイバイね~」「じゃーね」的なニュアンスになるのであろう。
いずれにしても、元になる「なら」は仮定条件として使われる言葉である。
「じゃー」の語源である「では」も同義である。
その意味では、「では、さようなら」は、仮定条件が重複しているので、文法的には誤りと言えよう。
さらに、より古い表現では「さらば」があるが、これも「さ、あらば(そうであるならば)」が語源で、やはり仮定条件からの派生である。
これらの言葉から類推するに、日本語では単刀直入な表現は「はしたない」という文化があったようで、「別れる」「帰る」という本題をはっきり表現せず、仮定条件の言葉で婉曲に表現することを好んだのではなかろうか。このような文化は、良くも悪くも日本のディベートや政治においても色濃く残っているように思う。
これら日本語の表現に共通するのは、刹那的というか、単にその時の別れの挨拶でしかない、ということである。
ちなみに英語では[see you again]が一般的だが、[good by]も同様に使われる。
[good by]は[Godbwye]の略語、さらに元を辿れば[God by with you]が語源、つまり、「神が汝とともにありますように」あるいは「神のご加護を」の意で、いかにもキリスト教色の濃い言葉である。
少なくとも、先の日本語には相手の将来を慮る意があるようには思えない。
その思いやりの意を含む日本語としては、「お元気で」や古くは「お達者で」、あるいは手紙で常用される「ご自愛ください」が使われる。また、少々上品な言葉「ご機嫌よう」も別れの言葉で、「ご機嫌よくお過ごしください」を略した言葉である。
さらに丁寧な言葉では「ご機嫌麗しゅう」がある。これもその後に、「お過ごしください」等が続いたのが略されたものだと思われる。別れや手紙の文末に使われ、意味としては「気分良くお過ごしください」といったところか。
似たところでは、手紙の文頭や挨拶に使われる「ご機嫌いかがですか」は、現在でも常用される相手の健康を気遣った表現である。
さらに同様な意味を含んだ挨拶の言葉としては、一般的な「お元気ですか」の他に、「お達者」「ご健勝」や「つつが無い」という表現が使われることがある。後者は「恙無い」と書き、病気、災難などがなく日々を送っている様を言う。
もともと「恙」の意味は、「ダニ、病気、災難」で、「ツツガムシ」とはケダニを意味する。童謡「ふるさと」にも「つつが無しや友がき」というフレーズがあるが、要するに元気で平穏無事ですか?という意味である。同様に最近ではほとんど使われない言葉に「息災」がある。
「息災なく」や「息災でしたか」「息災でなにより」といった使われ方をする。
現在、日常的には「無病息災」という4文字熟語での使われ方が圧倒的に多い。
「息災」の意味は、
1.仏の力によって災害や病気などの災いを消滅させること
2.身にさわりのないこと。達者。無事
となっている。
もともとは、修行する人の煩悩を取り払う仏教用語が元となっている。
ちなみに「息」には「やむ、しずめる」の意があり、意訳すれば「災いを鎮める」となる。
「ご機嫌麗しゅう」で使われた「麗しい」という言葉について。
一般的には、「美しい」という言葉がこの意味で使われている。
辞書には、
① (外面的に)魅力的で美しい。気品があってきれいだ。
② (精神的に)心あたたまるような感じだ。
③ きげんがよい。晴れ晴れしている。
とある。この中で、③ だけが「美しい」に置き換えるのにやや抵抗がある。
ただ一方で、「おいしい」に「美味しい」という漢字が当てられることがある。
ここから察するに、女子の名前で「よしこ」の漢字に「好子」や「美子」が使われるように、「美しい」にも好ましい、あるいは好感が持てるという意味合いがあり、使われる機会は多くはないものの、③ もまんざら本来の使い方から外れてはいないように思える。
要するに、「麗しい」は「美しい」に対し、やや格調高い、あるいは古風な言葉と言えるのかもしれない。
美しい日本語は大事にしたいものである。
10月21日
久しぶりに半日自由な時間が取れたので、赤城山に出かけました。近くて遠きはなんとやら、数年ぶりです。中腹から鍋割に登ろうかと思い調べてみたら、登山口が駐車禁止になっていて断念、覚満淵までクルマで行き、散策してきました。
おそらく標高は1500mくらいでしょうから、平地からは15℃は低いだろうと思い、それなりの上着を持って行ったのですが、外に出た途端、あまりの寒さに手の感覚がなくなりそうでした。9:3o頃で、徐々に暖かくなるはずなのに、山頂近く木々はみるみるうちに霧氷で白くなっていきました。
そんな中、赤城大沼でボートに乗って釣りをしている人もいました。
10月だというのに、ひと足早い冬景色でした。
前回に引き続き、続「美しい日本語」である。
ここでいう「美しい」とは、言葉の響きから感じるものと、その成り立ちから感じるものを含め、そう表現することとする。
まずは、陰暦(=太陰暦、日本で言う旧暦)の月の名称について。これを和風月名と言う。英語でいうJanuary February etc.に当たる。
現在では1月から12月まで数字を当てているが、これはいわゆる序数なので当然覚えやすいが、数字自体に意味はないし当然季節感は希薄である。
和風月名は、旧暦の季節や行事に合わせたもので、現在の季節感とは1、2ヶ月ほどずれがあるものの、やはり風情がある。
旧暦の月 | 和風月名 | 由来 |
1月 | 睦月(むつき) | 正月に親類一同が集まる、睦び(親しくする)の月。「始まる・元になる月」である「元月(もとつき)」が転じて「むつき」になったとの説も。 |
2月 | 如月(きさらぎ) | 衣更着(きさらぎ)とも書き、寒さが残っていて、衣を重ね着する(更に着る)月。 |
3月 | 弥生(やよい) | 木草弥生い茂る(きくさいやおいしげる)から、草木が生い茂る月。 |
4月 | 卯月(うづき) | 卯の花(うつぎの花)の月。稲を植える月(植月)から転じたとの説も。 |
5月 | 皐月(さつき) | 早月(さつき)とも言う。早苗(さなえ)を植える月。 |
6月 | 水無月(みなつき) | 水の月(「無」は「の」を意味する)で、田に水を引く月の意と言われる。梅雨が明け、水がないことからという説も |
7月 | 文月(ふづき、ふみつき) | 稲の穂が膨らむ月(穂含月:ほふみづき)から。 |
8月 | 葉月(はづき) | 秋になり木々の葉が落ちることから。葉落ち月(はおちづき)とも。 |
9月 | 長月(ながつき) | 秋の夜長から。夜長月(よながづき)とも。雨が多く降ることから長雨月から転じたとの説も。 |
10月 | 神無月(かみなづき、かんなづき) | 神の月(「無」は「の」を意味する)の意味。全国の神々が出雲大社に集まり、各地の神々が留守になる月という説なども。 |
11月 | 霜月(しもつき) | 霜の降る月。神無月を「上の月」とし、これに対し「下の月」との説も。 |
12月 | 師走(しわす) | 御師(僧侶)といえども趨走(すうそう、走り回る)する月。「年が果てる」から「年果つ」→「しわす」に転じたとの説も。 |
次に「節句」について。 「節」も「句」も時間の区切りを表す。
そもそも節句とは、中国から伝わった暦の上での風習を、稲作を中心とした日本人の生活に合わせて取り入れたものと言われている。
江戸時代に、幕府が公的な行事として定めたのが五節句といわれるもので、
1月7日の人日(じんじつ)、3月3日の上巳(じょうし、あるいはじょうみ)、
5月5日の端午(たんご)、7月7日の七夕(たなばた)、そして9月9日の重陽(ちょうよう)と呼ばれるものである。
いずれも、奇数が重なる日が制定されているのは、シリーズ㉖で述べているように、奇数=陽という発想に起因していると考えられる。
現在は、桃の節句と端午の節句のみが一般的な風習、あるいは季語として残っている。
節句に共通しているのは、その季節に合ったものを神様に供え、それを家族や地域の人々で分かち合うというもので、ひとつの文化であった。
神様への供え物は「節供(せっく)」といわれ、いつしか一区切りという意味で節と重ねて「節句」の字があてられるようになり、節目の日という意味に変化した。節句だけでも話し始めるときりがなく、節句とは矛盾するように一区切りがつかなくなる。
話は変わり、
『ひさかたのひかりのどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ』
という、百人一首に収録されている紀友則が詠んだ、あまりに有名な一首がある。日本人ゆえか、個人的にとても好きな句である。
この句の最も簡潔明瞭な現代語訳としては、
「こんなに日の光がのどかに射している春の日に、なぜ桜の花は落ち着かなげに散っているのだろうか。」
ちなみに、「ひさかたの」は日、月、空(すべて光に関わる)にかかる枕詞で、特段の意味はない(元々はあったはずだが)。
人生を謳歌するようなときなのに、同時にそのはかなさを歌った、日本人的哀愁を感じさせる名歌である。
この句全体に漂う明るさ、軽快さは、五句のうち四句が「は行」で始まるためと言われている。「h」は、構音でいうと無声音の摩擦音に分類される。破裂音と違い、空気が抜ける発音なので、聴覚的には軽い音に感じる。「は行」の発音のないフランス人には理解できないかもしれない。
以上触れただけでも、美しい日本語としては、やはり季節感が表現されたものが圧倒的に多い。
引き続き、季節に関するものを挙げてみたい。
今後、地球温暖化の影響で、過ごしやすい春と秋が短くなると予想されている。そして、集中豪雨や大雪、突風、猛烈台風といった荒れた天気が多くなるという。深刻な環境変化ではあるが、ここではひとまず横に置くとしよう。
四季のはっきりした日本ならではの季節感と、ここに暮らす人々の感性とは切っても切れない。二十四節気は次の通りである。
春:立春 雨水 啓蟄 春分 清明 穀雨
夏:立夏 小満 芒種 夏至 小暑 大暑
秋:立秋 処暑 白露 秋分 寒露 霜降
冬:立冬 小雪 大雪 冬至 小寒 大寒
気温、湿度、光、水、穀物にまつわるものが多いが、昆虫に由来するものもあり、興味深い。個々の成り立ちについてはここでは割愛するが、なるほどと思わせる名称ばかりである。
1年は12ヶ月、二十四節気ということは、その半分のいわば2週間毎の気象の変化、動植物の変化や兆しを表現しており、それを感じ取る日本人の感性の豊かさの象徴と言える。一方で、それなくしては生業である農業もままならず、農耕の目安として人々の暮らしが深く関わっていたとも言える。
さて、季節といえばまずは風。
日本で、風を表現する言葉は凡そ2000種類あるそうな。
これほど多彩な風が存在するのは、日本列島の位置や地形と深く関係する。
亜熱帯から温帯、そして亜寒帯に位置する日本列島は、南北で気候や温度差が大きく異なる。また、ユーラシア大陸の東に位置するため、季節の変わり目の温度差が大きく、温帯低気圧が発生しやすい。また、大陸の高気圧や南太平洋に発生する熱帯低気圧の影響も受けやすい。さらに、列島の中央に走る脊梁(背骨の意)山脈が列島を東西、あるいは南北に分断し、日本海側と太平洋側で、同じ国とは思えないほどの気候の違いをもたらす。
まず台風について。
明治時代に、英語のtyphoon=タイフーンに「颱風」という漢字を当てたらしい。その後、颱を略して台とし、台風と書くようになったと言われている。
一方で,英語の「typhoon」は中国から入ったという説が有力のようだ。研究社「新英和大辞典」第六版 (2002年) に,「英語の typhoon は中国語広東方言の tai fung (大風) から派生した語である」と書かれている。
かつては、「野分」「大山嵐(おおやまじ)」と呼ばれた。
「野分」は、「のわき」あるいは「のわけ」と読み、台風、あるいはその余波の風、また,秋から初冬にかけて吹く強い風を指す。野原を分けるように吹く強い風という意味からだ。ちなみに、「地震、雷、火事、おやじ」の「おやじ」は、「おおやまじ」が転じたものと言われている。
一方「木枯らし」は、木を吹き枯らす風の意から、初冬に吹く強い季節風を指す。
遅い台風と早めの木枯らしは時期こそかぶるものの、熱帯低気圧が発達した台風に対し、木枯らしは大陸の高気圧から吹き下ろす風で、成り立ちは全く異なる。
東風(こち)は、菅原道真が詠んだ和歌、
「東風吹かば にほひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」
で、市民権を得ているのではなかろうか。
それにしてもこの和歌は、京から太宰府に左遷された道真の思いと地理的関係を明確に表現していることがとても興味深い。
さて、東風(こち)とは「小風」のことであるという。
春風のやわらかなイメージが「小(こ)」という文字で表現されているそうである。
なお、古典文学では、小風(こち)のように、「風」に「ち」の音を当てる例が見られる。例えば、清少納言『枕草子』「名おそろしきもの」では、「疾風(はやて)」を「ハヤチ」と表している。
その他、東(ひがし)の語源「日向かち=ヒムカチ」の上略形「カチ」が「コチ」となり、東の風を意味する「コチカゼ(東風)」がさらに省略されて東風=コチとなったとの説もある。
ついでに、東(ひがし)の語源については、太陽が登る方角という意味の「日向かし」(ヒムカシ)説が有力である。
南風は「はえ」と読むが、主に西日本に伝わる言葉で、梅雨入りのころに吹くものを「黒南風(くろはえ)」、梅雨の半ばに吹くものを「荒南風(あらはえ)」、梅雨明けに吹くものを「白南風(しろはえ)」と言うそうである。
奄美・琉球地方の南の読み、(はえ)が語源のようで、全国に伝わる民謡「ハイヤ節」や「あいや節」の語源とも言われている。
ちなみに西風は「ならい」とも呼ぶが、地方によっては北風の意もある。
北風は「乾風(あなじ)」と呼ばれる。特に、北日本の日本海側で吹く北風を(たま)あるいは(たば)と言う。
風に関わる言葉で「秋波を送る」「秋風が立つ」というのがある。
まずは「秋波(しゅうは)を送る」について。
「相手の気を惹こうとする、相手の関心を惹こうとする」といった意味で使われる。
もともとは中国語に由来し、秋波とは秋の水面に立つ波を指す。空気の澄んだ秋に、水面を吹く風がわずかな波を起こし、その様子が涼やかであることから、涼やかな女性の目元を形容する表現となった。そこから「秋波を送る」は、女性が男性に対し「流し目をする」「色目を使う」となった。ちなみに最近では、男女に限らず政治的な駆け引きでも使われるようになった。
次の「秋風(あきかぜ)が立つ」は、男女間の愛情がさめることのたとえで、一説では「秋」と「飽き」をかけた洒落と言われている。ただ個人的には、夏のように熱かった男女の情愛が、秋風が吹くように冷めていく様子を表現しているように思えるが、諸賢の見解はいかがだろうか。
季節に無関係とは言えない個人的なエピソードをひとつ。
私が子供の頃、つまり60年近く昔のことだが、近所のおばあさんが夏の暑い時分、「水菓子をどうぞ」といって、梨を出してくれたのを今でも思い出す。果物を「水菓子」と言ったのだが、今で思うと、水分の多い梨はまさに水菓子で、当時まだ砂糖や冷蔵庫が贅沢品であったことを思うと、子供心に「果物」よりも「水菓子」のほうが甘さと涼しさを連想させ、より美味しそうに思えた。
こういった美しい言葉はぜひ残して欲しいものである。
日本人の耳にだけそう響くのだろうか、音(おん)として響きの美しい言葉を聞くとき、日本の文化を誇りに思い、その言葉の成り立ちに想いを馳せる。
まずは、時の移ろいに関するものから触れてみたい。
テレビ番組のタイトルなどで、古都のことをわざわざ「いにしえの都」という。
響きの綺麗な日本語だと思うが、「いにしえ」の語源は、「往 (い) にし方 (へ) 」から来ており、直訳すれば「行(往)ってしまった古い時代」ということになろうか。ちなみにこの言葉は「去(い)にしへ」とも書き、故人のことも指す。
「とこしえ」は漢字では「永久」が当てられる。「常し方(へ)」あるいは「長し方(へ)」が語源と思われる。
ちなみに「とわ」は「永久」「永遠」を当てるが、これは「常(とこ)」(接頭)=いつも変わらない、永遠である」の意を表す語から来ている。「とこしえ」の「え」は「いにしえ」同様、「え(あるいは(へ))(接尾語)」=「方」でその方向、向きの意を表す。「ゆくえ」「しりえ」「いにしえ」と同じ使い方である。つまり、「とこしえ」と「いにしえ」は過去と将来という意味で対(つい)である。
「あけぼの」は、「明け」と「ぼの(ほの)」からできた言葉で、「仄々(ほのぼの)と明けていく」あるいは、「仄(ほの)かな明け」の意で、夜のしじまから東の空がほのかに明るくなっていく様を表している。日本の感性を感じる。
一方で、これに似た言葉で「あかつき(暁)」という表現もある。これは、「あかとき(明時)」が変化した言葉で、夜が明ける時を指し、ほぼ同じ意味で使われる。
日の出の「あけぼの」に対して、日の入りに近い表現で「たそがれ(黄昏)」がある。これは、夕焼けの赤みの残るモメントを指す言葉である。
実は、古くは「たそかれ」と言われ、「誰 (た) そ彼 (かれ) は」、つまり「あの人は誰だろう?」と、日暮れて人の顔の見分けがつきにくい時間帯を指す。
転じて、人生の盛りを過ぎた頃を指すこともある。これもなかなか美しい日本語である。
これに近い言葉で、「ひともし頃」という表現がある。「火点し(ひともし)」とは灯火をともすことを指し、つまり暗くなって人工的な照明がないと生活に支障をきたすような時間帯を指す。
「訪れる」とはあまりに日常語で、特に語源など考えもしないかもしれない。
えてして日常用語とはそんなものであろう。
では、「訪れ」は「おとずれ」と読むが、これはどこから来たのだろうか。
音は、音波というように空気の振動である。風が吹けば音が生じるが、こういった自然現象を古来の人たちは神の来訪と感じたようである。これを、音を連れて神が来訪するので、音連れ(おとづれ)と言った。これが「訪れ」の語源である。
人が来訪する時も衣服が擦れる、衣擦れや足音など「音連れ」なのである。
さて、「うたかた」とは、はかなく消えやすいものといった意味である。
漢字では「泡沫」が当てられている。これには多くの語源や由来がある。
「ウクタマカタ(浮玉形)」の転、「ウキテエガタキモノ(浮きて得がたきもの)」の略、「ワガタ(輪型)」の「ワ」の延音「ウタ」、「ウツカタ(空形)」の転など、多くの説がある。
水面に浮かぶ泡を指すが、「水の泡」という使われ方から、消えやすくはかないもののたとえとして用いられている。
実は、漢字の「泡沫(ほうまつ)」は当て字である。
ちなみに、このように漢字2文字以上をまとめて訓読みすることを、熟字訓(じゅくじくん)と呼ぶ。
一般に「当て字」と呼ばれているものの中には、多くの熟字訓が含まれている。1946年に当用漢字が制定されたとき、「当て字はかな書きにする」という方針が打ち出され、その結果、熟字訓の語源の漢字はあまり用いられなくなった。一方で、もとの漢字には言葉本来の意味が表現されており、言葉の意味を理解するという面ではメリットも多いだが。
閑話休題。
「夢うつつ」、「うつつを抜かす」という言葉がある。
これらの引用例から、「うつつ」とは夢を見ている状態、あるいは現代の言い方では、バーチャルな状態を表していると誤解を招くかもしれない。
意外にも、「うつつ」には漢字の「現」が当てられている。
つまり、(死んだ状態に対して)現実に生きている状態、現存を意味する。
その他、気が確かな状態、意識の正常な状態、つまり正気を指す。
「うつつ」の語源は,諸説あるらしいが、ウツシ(顕)の語幹のウツから派生したとの説もある。
音が似ているところで、「うつせみ」という言葉がある。
この世に生きている人、あるいは現世、この世といった意味で用いられる。
現在では、雄略天皇(5世紀後半)条にある「ウツシオミ」という言葉が語源であるというのがほぼ通説となっている。この「ウツシオミ」とは、雄略天皇が人の姿で現れた葛城(かつらぎ)の一言主の大神に対し、「ウツシオミであるので神であると気付かなかった」と言ったもの。このウツシを「現」とすることは諸説一致しているが、オミの意味については「臣」の字を当てる説があるものの定説とはなっていない。
「空蝉」「虚蝉」は後世にできた当て字だが、地上に現れてからの寿命の短い蝉や蝉の抜け殻の意にも用いられ、虚しいものというニュアンスを持つようになった。時代の終末思想、末世思想が「うつせみ」に「空蝉」とあてさせたのだろうか、時代背景を感じさせる。
その他、現身(うつしみ)とする説もある。
さて、「そこはかと」は、「そこはかとなく」という否定語が続く形で多く使われる。
元々は「其処 (そこ) は彼 (か) と」と書き、「どこそことはっきりとは」、あるいは「確かには」という意味である。
次に「風=ふう」について。
「ローマ」に対して「ロマンティック」という形容詞があり、「ローマ風の」あるいは「ロマン主義」「ロマン派」「ローマ様式の」「ローマに通じる」と和訳されているが、まさしくこれと同じ表現である。
日常語として意識なく頻繁に使っている。現代語の「–っぽい」がこれに当たるのではないだろうか。
「風」は、「洋風」「現代風」というように、名詞や形容詞のあとに付けて方法や様子、様式、性格等を表現する。もともとは、気まぐれな風が吹くように、あまり堅いことに拘泥せず、言いたいことをストレートに言わず、オブラートに包むように、やや曖昧さをもたせて表現する場合に用いる。私説ではあるが、風が吹くように、どこかから影響を受けてそれになびくという意味合いもあるのではないかと思われる。いずれにしても実に和風な言語である。と言いながら、図らずも「風」を使ってしまうが、それだけ「風」が使いやすい便利な言葉なのであろう。
「こうしてください」ではなく、「こういうふう(風)にしてください」と言うと、表現が柔らかくなる。「このように」「こんな感じ」「これみたいな」という表現に類似している。
先に出た「洋風」も西洋そのものではなく、西洋の雰囲気、あるいは様式をもった、という意味で使われる。
「風情」「風格」「気っ風(きっぷ)」といった言葉にも、断定せず醸し出す雰囲気といった意味合いが感じ取れる。
事ほどさように、日本語には、「風」「光」「音」といったものが雰囲気の表現として使われる場合が多い。
「風景」と同様に「光景」という言葉も用いられる。「風光明媚」や「観光」にも「光」は使われる。「光り輝く」景色だからか、あるいは「光があるからこそ見える」景色だからか、正確な根拠はわかりかねるが、そう外れてはいまい。
一方「威光」や「後光」では、「光」はありがたさや威厳を表していると考えられる。
さて日本語では、ある感覚器の表現を別の感覚として使うことがよくある。
「暖色」という言葉は、視覚を温度感覚で表現、「明るい音」は聴覚を視覚で、「軽やかな響き」は聴覚を重量感覚で表現している。
私の大好きなワインでは、その味わいの表現として、「重い」「軽い」という重量感覚で表現している。舌で重量が測定できるわけがないが、呑んべいの味覚としては非常にわかりやすい。
「苦い経験」「甘い生活」では、人生を味覚で表現している。これは日本語に限った表現ではないが、そのあたりの詳細はここでは割愛させていただく。
次に、先にも出たが「しじま」には「無言」「黙」「静寂」の字が当てられる。
「しず」あるいは「しじ」(=静寂)と「ま(=時間)」からの成語という説がある。「静」と「間」がそれに当たろう。
一方、しじま(黙)の語源には、口をシジメル(縮める)シジマル(縮まる)の意があるという説もある。そこから「静寂」の意が派生したとも言われている。ちなみに、しじま(黙)と貝の蜆(しじみ)は「縮む」が共通の語源とされている。
「たおやか」とは、姿・形・動作がしなやかで優しいさまをさす。「たお」は「たわむ」から派生した言葉である。この語源は「硬いものが曲がった形になる」「弧を描く」という意味の「撓む(たわむ)」からきており、その意味から基本的に女性の所作や木の枝などに対して用いられる。
「木漏れ日」も日本的な美しい表現で、その名の通り、木陰から漏れる陽の光を指す。個人的には、学生時代に過ごした仙台の青葉通りや定禅寺通りのけやき並木を歩いた時の光の移ろいを思い出す。青春の不安に満ちた精神状態と重なって思い出される。時々、無性に仙台に戻ってみたいという衝動にかられる。やや感傷が入ってしまったこと、ご容赦願いたい。
演歌の歌詞によくある「移り香」。英語では、「a lingering (faint) fragrance [scent]」とある。物に移り残った香、残香、遺薫などと和訳される。香、香織、薫、馨等、名前にも多く使われている。源氏物語の「匂宮」「薫大将」も嗅覚に由来する。匂いで季節を感じるように、古来より、いかに日本人の嗅覚がその文化に根付いているかが想像できる。
さて、「はしたない」とは、礼儀に外れていて品がない、あるいは上品ではないといった意味で使われる。「はした(半端)」と「なし」から構成された語で、「はした」は「はんぱ」とも読み、一定の数量やまとまりとなるには足りない数や部分を指す。「なし」は否定語の「無し」ではなく、前の言葉を強調する時に用いられる。「あどけない」「せわしない」などの「ない」も同様の使い方である。つまり「はしたなし」は、「中途半端な」を強調したのが原義である。
「世知辛い」とは、世渡りが難しい、生きずらいといった意味で用いられる。
この言葉は実は仏教語が語源となっている。
「世知」とは、俗世間を生きるための智慧、つまり世渡り術を指す。「辛い」は「つらい」とも読み、英語のdifficultの同義で、生きにくい、生きずらいといった意味となる。
では「如才ない」の如才とは。ちなみに本来は如在と書く。
語源は、論語の「祭如在、祭神如神在(祭ることいますが如くし、神を祭ること神いますが如くす)」である。
意味は、「先祖を祭るには先祖が目の前にいるかのように、神を祭るには神が目の前にいるかのように心を込めて祭られた」。
これがいつしか、「形ばかりの敬意」「上辺(うわべ)の敬意」「形式的」といった意味に変化して使われるようになり、「如才」は「なおざりな様子」「手抜きをして気がきかない様子」を表すようなった。
今日では「如才ない」と後ろに否定語をつけて使われることが多くなり、「抜かりがない」あるいは「気の利いた」と肯定的な表現として用いられる。
「暮れ泥む」は「くれなずむ」と読む。
「暮れなずむ」というのは、日が暮れそうでなかなか暮れないでいる状態、つまり日が暮れかかってから真っ暗になるまでの時間が長いことを表す。「暮れなずむ」を「(すでに)日が暮れた」という意味で使うのは本来の使い方ではない。いわば、先に触れた、「黄昏時」と同義語ととらえてよかろう。
完成と言っても、建物だけで、これから旧医院の解体、駐車場整備、外構工事が待っています。
ここ2週間というもの、引越しと後片付けでクタクタです。
でも、来院された方から、「広いですね」「気持ちがいいですね」「綺麗ですね」「おめでとうございます」と口々に歓迎の言葉をいただき、やはり思い切って新築してよかったと改めて実感しました。
これからさらに、皆様に喜ばれる医院にしていきたいと思います。
新型コロナは変異株も含め、まだ終息は見えません。
でも季節は確実に進んでいきます。
医院の玄関前のモッコウバラは今年も咲き誇り、甘酸っぱい香りを漂わせています。
新しい医院の完成も間近、ゴールデンウィーク前後を使い、引越しとなります。
患者の皆様にはご不便をおかけします。
新築はめでたいはずですが、いろんな手続きや作業のことを思うと、寝ても目が覚めてしまうこともしばしば。
でもま、なんとかなるでしょう。
3月もはや下旬にさしかかりました。
3.11から丸10年ですが、昨日の朝方、かなり強めの地震がありました。災害を忘れるなという警鐘でしょうか。
さて、今年は前橋でも桜の開花の便りも記録的に早く、今週末にも満開になるのでしょうか。
モズは秋の季語ですが、拙宅の庭ではよく春先に見かけます。
上の写真は餌をくわえたモズです。かなり鋭い鳴き声です。目の周囲に黒い筋が見えないところから、メスだと思われます。
下は拙宅ベランダのユキヤナギの赤花の品種です。
一足早い花見気分です。
そういえば昨日庭にいたらジンチョウゲのあの強い香りがしました。
前回は、昨年水に基礎部分の建設の様子をご紹介しました。
その後の進捗ですが、今回の写真は、上が2月4日、下が本日2月24日の状況です。大まかな骨組みができていく様子がご覧いただけると思います。
電線等を避けながらの作業が最も難しかったようです。
ときに暖かい日もありますが、一年で最も寒い季節、そんな環境下で作業員の方々は手際よく組み立てていきます。
このあと、屋根材が乗るようですが、制限された条件下なので、重機ではなく手作業で行うそうです。実際にどうやるのか、見当がつきません。
いずれにしても、作業の安全を祈ります。