今回は漢字の成り立ちについて考えてみたい。
ちなみにこの作業を解字という。
漢字は多くの場合、旁(つくり)と偏(へん)あるいは冠から成り立っている。
そして、同じ旁をもつ漢字には共通して表現するものがある。
身近なものをいくつか取り上げてみたい。
まずはじめに、「主」という旁を見てみよう。
この旁は、元々燭台の上にじっと立って燃える灯明を表した象形文字であり、一つ所にじっとしている様を表している。
例えば「柱」では、木偏はもちろん木に関係することを意味する。つまり、じっと立つ木、あるいは立って支える木を表している。
では、同じ旁をもつ「住」という漢字はどうだろうか。
これは、人偏なので人に関わり、人がじっと同じところにとどまることを表している。従って、本来「住」は人に限定して使われ、鳥獣には「棲」を当てていた。
同様に、「駐」という字は馬が同じところにじっとしている様子、つまり馬をつないでいる様子を表現している。「駐車」は、かつての馬がクルマに代わった状態であり、「駐在」は一定の場所にとどまっている様を言う。
「注」は、水が柱のような形で同じ部分にそそがれる状態を表している。「注目」や「注意」などの熟語で使われるように、英語で言うならば、concentrated に近いニュアンスと考えられる。
ちなみに「往」であるが、この旁はこれまでの例とは起源が違い、元来「王」から転じたものであり、大きく広がる様を表し、「往」は大きく広がるように前進することを意味する。
次に、「悦」などの旁の「兌」について見てみよう。
これは、「八」と「兄」から成り、(大きい)子供の衣服を左右に分けて脱がせる様を表しており、広い意味では剥ぎ取ることを指す。
この旁に身体を表す肉月がつくと「脱」で、身体からものを剥ぎ取る、つまりぬぐという意味になる。
次に、禾(のぎ)偏がつくと税金の「税」。
禾偏は収穫を意味するので、「収穫したものを剥ぎ取る」とは、まさしく「税」そのものを表している。奇しくも「脱税」にはともに「兌」がついているが、剥ぎ取られるものからさらに逃れるわけであるから、いわば裏の裏をかく行為である。
では、最初に引用した「悦」はどう説明したらよいだろうか。
この立心偏は心や気持ちなど、精神的なものを表す偏である。
剥ぎ取るのは、心に覆いかぶさった不快なものである。すると心が晴れ晴れとして気分がよくなる、そういった状態を意味している。「悦」という字、なかなか意味深長な成り立ちではないだろうか。
これと少し似たような成り立ちの字として、「夬」が挙げられる。
この旁が使われている文字としては、「決」「快」「玦」「缺」「訣」「抉」等が挙げられる。が、当用漢字として使われていない字が意外に多い。
この「夬」は、右から左に向かって手が何かをつかもうとしている象形文字が起源となっている。この旁の本来の意味が最もよく表現されている字が「抉」であろう。この字を「抉る=えぐる」と読める方は、漢字検定2級レベルではないだろうか。
さて、「決」は水が関係していて、水が堤を切る様を表している。「決壊」という熟語からそのニュアンスが理解できよう。
そこから派生して、「決断」「決定」などのように物事をきっぱりと分けるという意味が使われるようになった。ちなみに、「玦」は一部を欠いた環状の玉を指す。
「決勝」は勝ち負けをはっきりさせること、「自決」は、主義主張を貫くため、あるいは責任を取るため自ら方針を決めたり、自らの命を断つことを意味する。
では「快」はどうだろうか。
なんと、心中のしこりというネガティヴなものをえぐり取ることを意味している。これがなくなれば心が晴れ晴れとして、さぞかし気持ちがよいだろう。
「悦」の成り立ちとダブるところが興味深い。
人生、悩みがつきものというところから派生したように思える「悦」や「快」だが、発想が妙であり面白い。
人生が「悦」や「快」ばかりでは、そもそも小説などという面倒臭い文学は存在する意味さえない。
次に、「肖」という字を取り上げてみたい。
この字は「小」と「肉」から成り、元々の肉を削って、原型に似た小型のものを作ることを表している。「肖像」などはこの元来の意味に近い使われ方である。また「不肖」とは、元になるものに似ていないこと、師匠や親に似ていず、劣っていることを言う(ちなみに、「似る」は「肖る」とも書く)。
「消」は火の勢いを水で小さくすること、「削」もけずって小さくすることを意味する。「梢」は木の先の小さくなった部分を指し(木の末なのでこずえ)、「哨」は口を細くすぼめて合図の口笛を吹く様を表し(動物でもサルなどは警戒時にこういった仕草をする)、転じて見張りを意味するようになった。哨戒機の「哨」はこの意味で使われており、英語ではpilotという言葉が当てられている。
やや本筋から外れるが、「消息」という言葉は、「消」が消える=死を、「息」が生きていることを指し、「生死」から様子、便りという意味を派生した。
さらに「寺」という旁に触れてみたい。
この字は、手を意味する「寸」と足を意味する「之」から成り、手足を動かして仕事をすることを表現している。また「之」には止まるという意味もある。
「時」は時間が動くことを意味し、「持」は手にじっと止めることを意味している。「詩」心の進むままを表したもの、あるいは心に止めたものを表したものである。
「寺」は、中国の漢の時代に、西域から来た僧を泊めて接待する施設を指し、のちに仏寺の意味で使われるようになった。
「待」は手足を動かして相手をもてなすことを表している。
「侍」は「寺」から派生し、身分の高い人の世話をする人たちを寺人と言ったが、役所や仏寺の意味に転用されるようになった。今では武士に近い意味で使われているが、時間の経過とともに随分違った使われ方になった。
「台」という旁は、上が曲がった鋤(すき)の棒を描いたもので、道具を使って仕事をすることを表し、下の口は人間が言葉を発して行動をし始めることを表している。
「始」は女性としての行為の起こり、つまり初めて胎児を腹にはらむことを表しており、のちに広く物事の始まりを意味するようになった。
いま使った「胎」も、人間が行為をし始める、動き始めた腹の中の赤子を意味している。「始」も「胎」も元の意味は近いようである。
「飴」の旁は、始まりという意味より人間が手を加える意味を表し、穀物を加工して作ったものという成り立ちである。
最後に「義」という字は、「我」と「羊」から成る。「我」はかど目が立ったほこを描いた象形文字、「羊」は形のよいヒツジの意味で、きちんとして格好がよいものを表現している。そこから「正しい道」という意味も生まれた。正義や定義などはその意味での使い方である。その他、「外から来て固有でないもの」「本物に近い」という意味もある。義歯や義足、義父などはこの例である。
ただし、この「正しい」と「近い」という意味がどこで結びつくのかはまだ勉強不足でわかりかねる。
紹介した旁はほんの一部だが、旁に内在する本来の意味を知ると、そこから派生した字の生い立ちや変化の過程を想像でき、とても興味深い。
(群馬県保険医協会歯科版掲載のための原稿)