前回に引き続き、続「美しい日本語」である。
ここでいう「美しい」とは、言葉の響きから感じるものと、その成り立ちから感じるものを含め、そう表現することとする。
まずは、陰暦(=太陰暦、日本で言う旧暦)の月の名称について。これを和風月名と言う。英語でいうJanuary February etc.に当たる。
現在では1月から12月まで数字を当てているが、これはいわゆる序数なので当然覚えやすいが、数字自体に意味はないし当然季節感は希薄である。
和風月名は、旧暦の季節や行事に合わせたもので、現在の季節感とは1、2ヶ月ほどずれがあるものの、やはり風情がある。
旧暦の月 | 和風月名 | 由来 |
1月 | 睦月(むつき) | 正月に親類一同が集まる、睦び(親しくする)の月。「始まる・元になる月」である「元月(もとつき)」が転じて「むつき」になったとの説も。 |
2月 | 如月(きさらぎ) | 衣更着(きさらぎ)とも書き、寒さが残っていて、衣を重ね着する(更に着る)月。 |
3月 | 弥生(やよい) | 木草弥生い茂る(きくさいやおいしげる)から、草木が生い茂る月。 |
4月 | 卯月(うづき) | 卯の花(うつぎの花)の月。稲を植える月(植月)から転じたとの説も。 |
5月 | 皐月(さつき) | 早月(さつき)とも言う。早苗(さなえ)を植える月。 |
6月 | 水無月(みなつき) | 水の月(「無」は「の」を意味する)で、田に水を引く月の意と言われる。梅雨が明け、水がないことからという説も |
7月 | 文月(ふづき、ふみつき) | 稲の穂が膨らむ月(穂含月:ほふみづき)から。 |
8月 | 葉月(はづき) | 秋になり木々の葉が落ちることから。葉落ち月(はおちづき)とも。 |
9月 | 長月(ながつき) | 秋の夜長から。夜長月(よながづき)とも。雨が多く降ることから長雨月から転じたとの説も。 |
10月 | 神無月(かみなづき、かんなづき) | 神の月(「無」は「の」を意味する)の意味。全国の神々が出雲大社に集まり、各地の神々が留守になる月という説なども。 |
11月 | 霜月(しもつき) | 霜の降る月。神無月を「上の月」とし、これに対し「下の月」との説も。 |
12月 | 師走(しわす) | 御師(僧侶)といえども趨走(すうそう、走り回る)する月。「年が果てる」から「年果つ」→「しわす」に転じたとの説も。 |
次に「節句」について。 「節」も「句」も時間の区切りを表す。
そもそも節句とは、中国から伝わった暦の上での風習を、稲作を中心とした日本人の生活に合わせて取り入れたものと言われている。
江戸時代に、幕府が公的な行事として定めたのが五節句といわれるもので、
1月7日の人日(じんじつ)、3月3日の上巳(じょうし、あるいはじょうみ)、
5月5日の端午(たんご)、7月7日の七夕(たなばた)、そして9月9日の重陽(ちょうよう)と呼ばれるものである。
いずれも、奇数が重なる日が制定されているのは、シリーズ㉖で述べているように、奇数=陽という発想に起因していると考えられる。
現在は、桃の節句と端午の節句のみが一般的な風習、あるいは季語として残っている。
節句に共通しているのは、その季節に合ったものを神様に供え、それを家族や地域の人々で分かち合うというもので、ひとつの文化であった。
神様への供え物は「節供(せっく)」といわれ、いつしか一区切りという意味で節と重ねて「節句」の字があてられるようになり、節目の日という意味に変化した。節句だけでも話し始めるときりがなく、節句とは矛盾するように一区切りがつかなくなる。
話は変わり、
『ひさかたのひかりのどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ』
という、百人一首に収録されている紀友則が詠んだ、あまりに有名な一首がある。日本人ゆえか、個人的にとても好きな句である。
この句の最も簡潔明瞭な現代語訳としては、
「こんなに日の光がのどかに射している春の日に、なぜ桜の花は落ち着かなげに散っているのだろうか。」
ちなみに、「ひさかたの」は日、月、空(すべて光に関わる)にかかる枕詞で、特段の意味はない(元々はあったはずだが)。
人生を謳歌するようなときなのに、同時にそのはかなさを歌った、日本人的哀愁を感じさせる名歌である。
この句全体に漂う明るさ、軽快さは、五句のうち四句が「は行」で始まるためと言われている。「h」は、構音でいうと無声音の摩擦音に分類される。破裂音と違い、空気が抜ける発音なので、聴覚的には軽い音に感じる。「は行」の発音のないフランス人には理解できないかもしれない。
以上触れただけでも、美しい日本語としては、やはり季節感が表現されたものが圧倒的に多い。
引き続き、季節に関するものを挙げてみたい。
今後、地球温暖化の影響で、過ごしやすい春と秋が短くなると予想されている。そして、集中豪雨や大雪、突風、猛烈台風といった荒れた天気が多くなるという。深刻な環境変化ではあるが、ここではひとまず横に置くとしよう。
四季のはっきりした日本ならではの季節感と、ここに暮らす人々の感性とは切っても切れない。二十四節気は次の通りである。
春:立春 雨水 啓蟄 春分 清明 穀雨
夏:立夏 小満 芒種 夏至 小暑 大暑
秋:立秋 処暑 白露 秋分 寒露 霜降
冬:立冬 小雪 大雪 冬至 小寒 大寒
気温、湿度、光、水、穀物にまつわるものが多いが、昆虫に由来するものもあり、興味深い。個々の成り立ちについてはここでは割愛するが、なるほどと思わせる名称ばかりである。
1年は12ヶ月、二十四節気ということは、その半分のいわば2週間毎の気象の変化、動植物の変化や兆しを表現しており、それを感じ取る日本人の感性の豊かさの象徴と言える。一方で、それなくしては生業である農業もままならず、農耕の目安として人々の暮らしが深く関わっていたとも言える。
さて、季節といえばまずは風。
日本で、風を表現する言葉は凡そ2000種類あるそうな。
これほど多彩な風が存在するのは、日本列島の位置や地形と深く関係する。
亜熱帯から温帯、そして亜寒帯に位置する日本列島は、南北で気候や温度差が大きく異なる。また、ユーラシア大陸の東に位置するため、季節の変わり目の温度差が大きく、温帯低気圧が発生しやすい。また、大陸の高気圧や南太平洋に発生する熱帯低気圧の影響も受けやすい。さらに、列島の中央に走る脊梁(背骨の意)山脈が列島を東西、あるいは南北に分断し、日本海側と太平洋側で、同じ国とは思えないほどの気候の違いをもたらす。
まず台風について。
明治時代に、英語のtyphoon=タイフーンに「颱風」という漢字を当てたらしい。その後、颱を略して台とし、台風と書くようになったと言われている。
一方で,英語の「typhoon」は中国から入ったという説が有力のようだ。研究社「新英和大辞典」第六版 (2002年) に,「英語の typhoon は中国語広東方言の tai fung (大風) から派生した語である」と書かれている。
かつては、「野分」「大山嵐(おおやまじ)」と呼ばれた。
「野分」は、「のわき」あるいは「のわけ」と読み、台風、あるいはその余波の風、また,秋から初冬にかけて吹く強い風を指す。野原を分けるように吹く強い風という意味からだ。ちなみに、「地震、雷、火事、おやじ」の「おやじ」は、「おおやまじ」が転じたものと言われている。
一方「木枯らし」は、木を吹き枯らす風の意から、初冬に吹く強い季節風を指す。
遅い台風と早めの木枯らしは時期こそかぶるものの、熱帯低気圧が発達した台風に対し、木枯らしは大陸の高気圧から吹き下ろす風で、成り立ちは全く異なる。
東風(こち)は、菅原道真が詠んだ和歌、
「東風吹かば にほひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」
で、市民権を得ているのではなかろうか。
それにしてもこの和歌は、京から太宰府に左遷された道真の思いと地理的関係を明確に表現していることがとても興味深い。
さて、東風(こち)とは「小風」のことであるという。
春風のやわらかなイメージが「小(こ)」という文字で表現されているそうである。
なお、古典文学では、小風(こち)のように、「風」に「ち」の音を当てる例が見られる。例えば、清少納言『枕草子』「名おそろしきもの」では、「疾風(はやて)」を「ハヤチ」と表している。
その他、東(ひがし)の語源「日向かち=ヒムカチ」の上略形「カチ」が「コチ」となり、東の風を意味する「コチカゼ(東風)」がさらに省略されて東風=コチとなったとの説もある。
ついでに、東(ひがし)の語源については、太陽が登る方角という意味の「日向かし」(ヒムカシ)説が有力である。
南風は「はえ」と読むが、主に西日本に伝わる言葉で、梅雨入りのころに吹くものを「黒南風(くろはえ)」、梅雨の半ばに吹くものを「荒南風(あらはえ)」、梅雨明けに吹くものを「白南風(しろはえ)」と言うそうである。
奄美・琉球地方の南の読み、(はえ)が語源のようで、全国に伝わる民謡「ハイヤ節」や「あいや節」の語源とも言われている。
ちなみに西風は「ならい」とも呼ぶが、地方によっては北風の意もある。
北風は「乾風(あなじ)」と呼ばれる。特に、北日本の日本海側で吹く北風を(たま)あるいは(たば)と言う。
風に関わる言葉で「秋波を送る」「秋風が立つ」というのがある。
まずは「秋波(しゅうは)を送る」について。
「相手の気を惹こうとする、相手の関心を惹こうとする」といった意味で使われる。
もともとは中国語に由来し、秋波とは秋の水面に立つ波を指す。空気の澄んだ秋に、水面を吹く風がわずかな波を起こし、その様子が涼やかであることから、涼やかな女性の目元を形容する表現となった。そこから「秋波を送る」は、女性が男性に対し「流し目をする」「色目を使う」となった。ちなみに最近では、男女に限らず政治的な駆け引きでも使われるようになった。
次の「秋風(あきかぜ)が立つ」は、男女間の愛情がさめることのたとえで、一説では「秋」と「飽き」をかけた洒落と言われている。ただ個人的には、夏のように熱かった男女の情愛が、秋風が吹くように冷めていく様子を表現しているように思えるが、諸賢の見解はいかがだろうか。
季節に無関係とは言えない個人的なエピソードをひとつ。
私が子供の頃、つまり60年近く昔のことだが、近所のおばあさんが夏の暑い時分、「水菓子をどうぞ」といって、梨を出してくれたのを今でも思い出す。果物を「水菓子」と言ったのだが、今で思うと、水分の多い梨はまさに水菓子で、当時まだ砂糖や冷蔵庫が贅沢品であったことを思うと、子供心に「果物」よりも「水菓子」のほうが甘さと涼しさを連想させ、より美味しそうに思えた。
こういった美しい言葉はぜひ残して欲しいものである。