コロナ禍で家での生活が増えた分、たくさん本を読むことができました。
その中で、立花隆著「思考の技術」を一部ご紹介し、私なりの感想を書き添えたいと思います。
ちなみにこの著書の原著は1971年に出版されたものですが、その後再編集して今年新たに出版されたものです。内容のほとんどは半世紀前のままですが、現在なお光り輝いています。
新型コロナウィルスとの共存が強いられる中、ご自身の生活や生き方の参考になればと思います。
「寄生者」が暴れた時、人は「病気」になる
自然界から寄生という現象を排除して考えることはできない。あらゆる生物が寄生者を持つと考えてさしつかえないほどである。寄生者を持たない生物をさがすには、バクテリアのレベルまで下らなくてはならない。
たとえば一羽の鳥をとりあげてみる。そこには幾種類かのダニ、シラミ、ノミ、ヒル、条虫、尖頭蠕虫せんとうぜんちゅう、回虫、吸虫、眠り病虫、舌形類、らせん菌、鞭毛虫、アメーバといった寄生者がたかっているのが普通である。その種類の多さについては、56種類の鳥の巣を調べたところ、ダニなどの節足動物だけで529種類もいたという報告がある。また数の多さについては、1羽のダイシャクシギから、1000匹以上のハジラミが見つかったという報告がある。
人間については、文明国ではノミもシラミも退治され、回虫などの寄生虫もほとんどなくなっているから、寄生者は求めるのがむずかしいだろうと考える人がいたら誤りである。人間の体内にも、いたるところ寄生生物がいる。消化器官、分泌腺、肺、筋肉、神経などにウヨウヨいる。寄生者とは、必ずしも回虫、ジストマなどの大型生物だけをさすのではない。大腸菌のような菌類も含むのである。
人間はふだんはこうした寄生者のことを気にもとめていない。ときどき寄生者が、ただ寄生していることに甘んぜず、人体の組織や器官の働きを壊しにかかることがある。このとき人間は病気となり、その寄生者は病原体と名づけられる。そして、人間は病原体を追い出すためにやっきとなる。
(感想)
寄生虫というと狭い意味での寄生生物を指しますが、ウィルスやバクテリア等、広い意味での寄生生物はいたるところに棲息しています。そして通常は、それらが絶妙なバランスを保っているため、ことなきを得ています。ところが、抗生物質で病気の原因菌を退治しようとすると、その菌のみならず他の菌も死滅することがあります(大抵そうなります)。すると、その抗生物質の影響を受けなかった菌が空いたスペースに異常繁殖し、新たな病気を引き起こす場合があります。菌交代現象、あるいは日和見感染と言います。
疫病が終焉しないのは、都市があるから
病気は寄生者のおごりによる失敗である。巧みな寄生者は、宿主を殺さない程度に甘い汁を吸いつづける。宿主を殺してしまっては、自分も死なざるをえないからである。
病原体微生物は、たびたび猛威をふるって疫病を流行させたことがある。しかし、いかなる疫病もそう長続きするものではない。宿主の死につき合っていれば自分も死ぬ。宿主が死なないうちに、別の宿主のところに移動しようと思っても、周囲の人間がバタバタ倒れて生息密度が低くなっているので、それもできない。ということで、疫病は終焉するのである。病原体微生物による病気は古代からあった。しかし、それが流行病となったのは、人間が都市をつくり、人口密度を増加させ、寄生者が宿主の間を移動しやすい環境をととのえてやったからである。
家畜や農作物の間には、豚コレラ、ニューカレドニア病、イモチ病といった流行病がやたらと発生するが、自然林や自然草原の動植物の間には別に流行病が発生しないのも同じ理由による。家畜や農作物のために人間が作ってやった単一の環境は、病原体微生物にとっても、心地よい環境なのである。
寄生という現象を広義に解釈してみる。すると、人間の自然界における位置も寄生者にすぎないことがわかる。
人間という寄生者は、自然という宿主に寄生しているのであるから、自然を殺さない程度に利用すべきなのである。病原体微生物のように、宿主の生命を破壊するという愚を犯してはならない。宿主を変えようにも変えることができないからである。すでに地球自然は病みつつある。このへんで、毒素の排出を人間がやめないと、元も子もなくなりそうである。
(感想)
現在、新型コロナウィルス感染収束に見通しの立たない状況が続いていますが、このウィルスもいずれは弱毒化したものだけが残り、宿主である人間の命を奪わない程度に静かに共存するようになるでしょう。ただ、ここで述べているように、密集しすぎた環境は疫病の感染が広まりやすいので、注意が必要です。また、人間も地球(地球を生物ととらえて)にとっての寄生生物である以上、宿主を死滅させるような愚は侵してはいけないし、それが結果的に人間という種を守ることでもあるのです。
進歩の方向と速度を考え直せ
生態学の観察する自然界での速度は正常な変化であるかぎり緩慢である。生物は、あるスピード以上の変化には、メタボリズム機能の限界によってついていけなくなるからである。
進歩という概念を考え直すに当たって、生態学の遷移という概念が参考になるに違いない。遷移のベクトルを考えてみる。その方向は系がより安定である方向に、そしてエネルギー収支と物質収支のバランスの成立の方向に向けられている。その速度は目に見えないほどのろい。なぜなら、系の変化に当たって、それを構成する一つ一つのサブシステムが恒常状態(ホメオスタシス)を維持しながら変化していくからである。自然界には、生物個体にも、生物群集にも、そして生態系全体にも、目に見えないホメオスタシス維持機構が働いている。
文明にいちばん欠けているのはこれである。それは進歩という概念を、盲目的に信仰してきたがゆえに生まれた欠陥である。進歩は即自的な善ではない。それはあくまでも一つのベクトルであり、方向と速度が正しいときにのみ善となりうる。
いま、われわれがなにをさしおいてもなさねばならぬことは、このベクトルの正しい方向と速度を構想し、それに合わせて文明を再構築することである。
(感想)
生物は本来、恒常性の維持(ホメオスタシス)といって、自身が対応できるある範囲内の変化はありつつ、その範囲を超えた場合、異常と感じます。ゆっくり時間をかけての緩やかな変化はホメオスタシスで対応できますが、急激な変化は異常と感じ、正常に戻そうとします。人類の文明の速度は、ホメオスタシスの範囲を超えているということでしょう。その変化の速度は生態学的に正常なのか、また変化する方向は間違っていないのか、自然と対話しながら自然への致命的なダメージを与えない方向を探っていかなくてはならないのでしょう。
-立花隆『新装版 思考の技術』(中公新書ラクレ)からの引用と感想-