副題のごとく、日本語には訓読みは同じで意味として共通部分はあるものの、異なる漢字が使われるものがある。これを同訓異義、あるいは同訓異字というが、その数はかなり多い。
日本語は、多くの言語の中でもとりわけ語彙(ボキャブラリー)が多いことが、その理由の一つであろう。そのため、駄洒落も生みやすい。
とにかくその数といったら膨大なのだが、幾つか例として取り上げ、それぞれの意味の違いを考えてみたい。
まず、以前の回でも触れたことがあるが、ある場所で生活することを「すむ」という。「住む」は最も広義で使われるが、人偏があるので、もともとは人が生活する場合に用いた。一方で「棲む」は、鳥や獣が巣を作って生活する場合に使われる。「棲息」という熟語からも理解できよう。
目で知覚することを「みる」という。最も広義では「見る」が使われるが、英語ではseeが該当するようである。
ある場所に出かけて見て楽しむ場合、「観る」が当てられる。「見物」や「鑑賞」の意に近い。熟語としては「観光」「観戦」「観覧」等があり、英語ではenjoy( seeing)だろうか。
「視る」は、より神経を集中して見る意味で、「凝視」「注視」の熟語があり、英語ではwatchが近い。
「診る」は医療用語として日常的に使われるが、見て判断、評価するという意味で、医療で使われることが多い。英語のexamineが相当するが、奇しくもseeもこの意味で使われることがある。
「看る」も同じく医療の分野で使われるが、こちらは、悪くならないように気を配る、見守るという意味合いが強く、英語ではcareが近い。
「きく」にも、「聞く」、「聴く」、そして「訊く」がある。
広義で使われるのはもちろん「聞く」で、英語のhearに当たる。「聴く」はより意識的に集中する様で「耳を傾ける」で英語のlistenが、そして「訊く」はたずねて答えを求める意で英語ではaskが当てはまる。
次に、「あける」という言葉では、「開ける」「空ける」「明ける」が思いつく。これらに共通しているのは、空間ができるというニュアンスである。
「開ける」は、門構(もんがまえ)がある様に、閉ざされていたものが開いて新たな空間ができること、「空ける」は、埋められていた物が除かれ空間ができること、そして「明ける」は闇で覆われていたものがなくなり、日が差して明るくなることを表している。
英語では順に、open, empty, break(あるいはdawn)が相当する。
「とる」も、実に多くの漢字が当てられている。
一般的には「取る」が広義で使われ、保持したり自分のものにすることを表している。
「捕る」は(手で)捕まえること、「摂る」は「摂取」などの熟語に使われ、食べること、体内に取り込むことを指す。
また、「穫る」は禾偏より農作物などを収穫すること、「獲る」は獣偏より狩りや漁で獲物を捕まえることを指す。
「採る」は、集める、採集する、選ぶといった意味を持つ。
さらに、「撮る」は写真や映画を撮影すること、「録る」は画像や音で記録することなので比較的新しい使い方といえよう。
「盗る」は、他人のものを奪って自分のものとすること、そして「執る」は手に持って使う、あるいは行うといった意味である。
「おす」にも、「押す」「推す」「捺す」「圧す」がある。
手偏の字が多いことから、それぞれ何がしかの力が関与していることがうかがえる。
最も一般的なのが「押す」で、物に手や指先をあてがって、前方に力を加える行為を指す。
「推す」は、適当な人(物)として薦めることを指すが、「推進」のように、「押す」と同様の意味もある。また、「推し量る」「推進」のように、時間的、方向的な前方への力を感じとれる。
「捺す」は、「捺印」のように上から力や重みを加えることをいう。
「圧す」は、力や権威などで押さえつけることを意味する。
やや使い分けしにくい言葉に「すすめる」がある。
「進める」「勧める」「薦める」「奨める」「推める」といった漢字が当てられるが、これらにも「おす」と類似し、前方に動かすという共通概念がある。
「進める」は広義で、英語ではdrive、advanceあるいはforwardが当てはまる。
「推める」も「推進」で使われるようにほぼ同義だが、手偏があり手で押して前に進めるというニュアンスがより感じられる。
「勧める」は、相手にあることをするように働きかけるの意(英語ではrecommendあるいはsuggest)、「薦める」は人や物の良い点を挙げ、相手に採用を促す意、「奨める」は、励まして奮い立たせる、つまり背中を押すといった意がある。
さて、「かえる」にも、「変える」「代える」「替える」「換える」「帰る」「返る」「反る」等がある。
「変える」は状態を変化させること、場所を移動すること(英語ではchange)、「代える」は熟語にあるように代用する、代理とすること(substituteあるいはreplace)、「替える」は同種の物と入れかえること、それに対し「換える」は、別の物と取りかえることを意味する(change, exchange ,replace, convert)。
以上とは明らかに意味の違いはあるが、「帰る」「返る」「反る」は自動詞で、共通しているのは、ベクトルが逆になるニュアンスが含まれていることであろう。
「帰る」は、「往復」の「往」に対する「復」であり、「もとのところに戻る」の、「返る」は「物がもとに戻る、もとの状態に戻る」の、そして「反る」は「反動」「反発」で使われるように「向きが逆になる」の意である。
「さわる」もなかなか興味深く、「触る」と「障る」がある。
前者は、触れる、接触するという意味、後者は邪魔になる、あるいは害になるという意味である。ちなみに「キザ」という言葉は、「気に障る」「気障り」からできた俗語である。「気分を害する」というのは、感覚的に不快になるわけだから、直接間接の差はあれど、不快な感触と無関係ではなかろう。
ちなみに、「話の触り」といったときの「触り」とは最初の部分ではなく、話の聞きどころを指す。
「いう」にも大きく三つある。
「言う」は、考えや行為を言葉にして表現すること、自分の言葉で表現すること(sayあるいはtell)、「云う」は既存の論旨や他人の言葉を引用すること(state)、「謂う」は、特定の課題について自分で考え意見を述べることと説明されるが、これに関しては残念ながらいまひとつクリアーな説明ができない。
「おもう」では、一般的には「思う」が使われる。
「思」は、「田」と「心」から成り、「田」は幼児の脳を表し、「心」は心臓を表す。つまり「思う」は頭と心で感じるという意味である。
「想う」は、「相」と「心」から成り、「相」は木を対象として見ることを表し、これと「心」とで、「ある対象のことを心で考える」という意味になる。「思う」と比較し、より対象がはっきりとした、あるいは強い感情が込められていると考えられる。「念う」には、心を一つのことに集中させる意味があり、「念じる」と使われるように、一心に思い入れるといった意味がある。
「憶う」は、「記憶」といった使い方からわかるように、かつての事物を忘れないでいたり思い出すといった意味で用いる。英語のsouvenirがニュアンスとして近いかもしれない。
「惟う」は、「隹」が鳥を表す通り、思い巡らすといったニュアンスがある。
最後に、あまり使われないが「慮う」は、「おもんばかる」と読むように、深く思考する意味で使われることがある。
「かける」にも、「掛ける」と「架ける」、そして「懸ける」と「賭ける」がある。
「掛ける」は「ひっかける、上から物を置く」という最も広義で用いるのに対し、「架ける」は物と物の間を渡す場合(歯科のブリッジは架橋義歯と和訳される)、「賭ける」は金銭等賭け事に関する場合、「懸ける」は捧げる、託すといった意味合いで用いる。
「しずめる」は比較的違いが明確で、「静める」は音や声を静かにさせること、「沈める」は水中に没すること、「鎮める」は「鎮圧」という熟語にもある通り、(なんらかの力により)騒動や混乱をおさめることをいう。
逆に何が共通しているかだが、三者とも動きのあるものの勢いを抑える、落ち着かせるといったニュアンスが感じ取れる。
「あう」では、「合う」は二つ以上のものが一つになる、一致するの意(fitあるいはsuit)、「会う」は、人、または何かとあるところで一緒になるの意(meetあるいはsee)、「逢う」は「会う」と類義だが特に親しい関係にある場合に使われる。「遭う」も「会う」と類義だが、嫌な人、あるいは欲しない事柄と偶然あう、つまり「出くわす」(encounter)といった意味で使われる。
「こす」にも「越す」と「超す」がある。
前者が、場所や点、時間を過ぎて向こうへ行くことを表し、後者がある一定の数量や基準、限界を上回ることを表す。換言すれば、前者が水平的な位置の移動であるのに対し、後者は上下的な位置の移動とも表現できる。
ちなみに「漉す」「濾す」は、液体等に混じった不要物、不純物を紙、布、フィルター等で取り除くことを指すので、濾されたものはそこを通過するという意味では、「越す」と同源ではないかとも考えられる。
次に、形容詞の例として「かたい」を取り上げてみる。
「かたい」にも「固い」「硬い」「堅い」があるが、これらは反対語で比較するとわかりやすい。
「固い」は「ゆるい」の(例:固い絆)、「硬い」は「やわらかい」の(例:硬いパン)、そして「堅い」は「もろい」の反対語である(例:堅強)。
ついでに「やわらかい」では、「柔らかい」は曲げても折れない、ふわっとした、あるいはしなやかであること、「軟らかい」はぐにゃりとした、手ごたえがないといったニュアンスがある。したがって、柔道は決して「軟道」ではないのである。
次に、名詞の同訓異義語について。
「あし」にも、「足」と「脚」がある。
一般的には「足」を使う場合が多いが、両者を分ける場合は、くるぶしから先の部分には「足」(foot)を、膝から下の部分、あるいは足全体を指す場合には「脚」(leg)を使う。「馬脚を現す」はこちらである。上肢でいえば、それぞれ「手」と「腕」がこれに相当する。
「町」と「街」の違いは、前者が主に家々が密集している場所、地域(town)を指すのに対し、後者は商店やビルが立ち並んでいる道筋(通り)を指す(street)。別の言い方をすれば、前者が面を表すのに対し、後者は「街道」というように線を表すといってもいいかもしれない。
「木」と「樹」の違い。
「木」は自然の状態で生えている樹木もさすが、同時に材木になったもの、材木として使われたものも指す。
一方の「樹」は、生きている樹木にしか使われない。
「なか」も、「中」はある範囲の内側でinsideの意、「仲」は人間関係について使われるのでrelationshipの、「央」は真ん中(あたり)でcenterの意味に近い。このあたりは、音の異なる英語による説明のなんと明快なことか。
「かげ」にも、「影」と「陰」「蔭」「翳」等がある。
最初の「影」は、光が物体に遮られ、その光源と反対側にできる黒い部分を指す。一方「陰」は物体に遮られ、光や風雨が当たらないところを表し、「陽」の対意語である。
英語では、前者がshadow、後者がbehind、あるいはshadeが相当する。
「蔭」は草冠がつくように、草木のかげを指し、そこから派生し人からの恩恵をも表す。
「翳」は「羽」の字があるように、鳥の羽などで扇型にし柄をつけたものを指す。これで貴族が顔などを隠し、視線を遮るのに用いた。
差と叉について。
「交差」と書く場合と「交叉」と書く場合がある。
2本以上の線状のものが、1点で重なることを指す。
本来は「叉」で英語ではcrossが相当するが、この字が当用漢字にないため、「差」を当てている。
ただ、「差」は英語ではdifferenceで、違いやズレをあらわす漢字なので、「交差」という言葉は本来の意味とはかなり違い、私見ではあみだくじの図形を連想させる。画数の簡単な「叉」くらい、当用漢字にしても良さそうなものである。
最後に「のり」という音は実に奥が深い。
論語の中では、年齢を表す言葉として「不惑」というのが有名である。40歳を指す言葉だが、「四十にして惑わず」からきている。ちなみに、70歳という年齢の表現として、「七十にして心の欲する所に従いて矩を踰えず」というものがある。
この「矩」は「のり」と読むが、同音には「則」「法」「憲」「規」「紀」「倫」「典」等、たくさんある。この言葉の深遠さは、人の名前に多く使われていることからも想像に難くない。
まず、「矩」は矩尺(かねじゃく)のことで、かぎ型(直角)の定規を指す。
「法」は、解字からみると「水+鹿と馬に似た獣の姿+去(引っ込める)」で、「池の中の島に珍獣を押し込めて、外に出られないようにしたさま」と解説されている。
「憲」は「かぶせる物+目」から成り、目の上にかぶせて、勝手な言動を抑える「わく」を示している。ちなみに。憲法は権力者の権力の逸脱を許さないための法律である。最近、拡大解釈されていることが気がかりである。
さて、「規」は「矢+見」で、直線の棒を松葉型にくみ、その幅を半径として円を描いて見るという作業を指す。コンパスを連想すればよさそうである。
「則」は「刀+鼎(かなえ)の略形」で、鼎(金属の器)にスープや肉を入れ、すぐそばにナイフを添えたさまを指すようである。
「紀」は、「糸+(音符)己」で、糸のはじめを求め、目印をつけ、そこから巻く、織るといった動作を指す。「風紀」などに使われている。
「倫」は、「集める印+冊」の会意文字で、短冊状の竹札を集めてきちんと整理するさまを指す。
「典」は、「倫」と似ており冊の原形とされている。ずっしりとした書物を平らに陳列するさまを意味している。
これら多くの「のり」に共通しているのは、要するに「きちんとする」というニュアンスではないだろうか。そして「規則」「法則」「法規」「憲法」等、これら同士の熟語もよく使われるが、これも相応に意味あることだと思う。
決められたこと、守らなければならないこと、けじめをきっちりすること、そういった意味合いが込められているように思えてならない。
ちなみに先に述べた論語の70歳を表す言葉は、「70歳になると、自分の好き勝手に生きても、人の道から外れることはない」という意味で、私もこの先そう生きていきたいものだと我が不徳を認めながらも、半分ため息交じりで納得する次第である。
その他、「波」と「浪」、「海」と「洋」、「岡」と「丘」、「磨く」と「研く」、「森」と「杜」、「里」と「郷」等、まだまだ枚挙にいとまがないが、それぞれ微妙な意味の違いを調べてみるにつけ、同訓異義語は実に興味深い。