そうだったのか語源⑬   −国名都市名その1−

今回は、国名や都市名についてエピソードを交えて触れてみたい。

まず、2016年にオリンピックが開催されたブラジルのリオデジャネイロ。

ブラジルの言語であるポルトガル語では、Rio de Janeiroと書くが、Rioは英語のriver、deはof、JaneiroはJanuary、つまり「一月の川」という意味である。この地はグアナバラ湾の入り口に位置しているが、初めてここに到着したポルトガル人はこの狭まっている湾口を川と誤認したため、発見した月にちなんでこの名前をつけたそうである。

同じく発見者により命名された国名で、これまた同じく南アメリカにあるアルゼンチンという国。

この国は、スペインに征服されたが、独立当時、リオ・デ・ラ・プラタ連合州(Provincias Unidas del Río de la Plata)と呼ばれていた。リオ・デ・ラ・プラタはスペイン語で「銀の川」を意味する。16世紀にこの地を踏んだスペインの征服者は、銀の飾りを身につけた原住民を見て、川の上流に銀の鉱脈があると信じてこの名をつけたそうである(ちなみにアルゼンチンは現在銀の産出量世界10位)。その後、スペインによる圧政を忘れるために、銀のラテン語表記の「Argentum」に、地名を示す縮小辞(-tina)をつけてArgentinaとし、日本語ではアルゼンチンと呼ぶようになった(銀の元素記号Agも同じ由来)。

ちなみにLa Plataは、首都ブエノスアイレスを流れる川の名として現在も残っている。

ラテンという言葉が出たところで、国名ではないがラテンアメリカという地域名について触れておこう。

これはアングロアメリカ(アングロサクソン系が主導権を握る国々=米国、カナダ)に対して付けられた名前で、中米から南米の国々を指す。

ラテンという言葉には「イベリア系の」という意味があり、これらの国々をかつて支配していたのが、ほぼスペインとポルトガルだったことに由来している。

さて、ラテンアメリカのコスタリカという国名。

Costa Ricaはスペイン語だが、英語ではrich coastとなり「豊かな海岸」という意味である。

ちなみに、同じラテンアメリカにエクアドル(=Ecuador)という国があるが、英語のequator、スペイン語で赤道という意味である。地図で調べると、たしかに赤道の上に位置している。equatorの(equa-)はequal=等しいと同源で、赤道は北極と南極から等距離にある線という意味である。

「海岸」に関連して、アフリカに行くとCôte d’Ivoire=コートジボアールという国がある。ある年代以上の方には、元フランス領の「象牙海岸」という名前の方が馴染み深いかもしれない。Ivoire (仏)は英語のivoryで、つまりかつての意訳がそのまま原語の仏語に戻されただけである。1986年、この国の政府が、自国名に対し、意訳による外名(第三者による特定の土地・民族の呼称のこと)の使用をやめるよう各国に要請したことによる。

Côteが出たついでに、フランス南東部の Côte d’Azur=コートダジュールは保養地として有名だが、Azur(アズュール)はフランス語で青を意味し、「紺碧海岸」と和訳される。「アズレンうがい液」という青い薬剤があるが、これも同じ語源である。

さて、今度は中東に目を向けると、ヨルダンという国がある。紛争の絶えないイスラエル、パレスチナの隣国であるが、国名はそこを流れるヨルダン川に由来している。ヨルダン川は、ヘブライ語起源の河川名で、聖書にも出てくるそうである。スペルはJordanだから、英語読みでは「ジョーダン」だ。この読み方だと、国名よりは人名を連想させる。

ヨルダンからやや北上すると、ジョージアという国があるが、この国名は最近耳にするようになった。力士の栃ノ心の出身国でもある。この国、アメリカの州名かと耳を疑いそうだが、実はかつて、ロシア語でグルジアと呼ばれていた。

英語でのスペルはGeorgiaだから、どちらの読み方もできそうである。

国連加盟国の大多数の国は、もともとこの国を英語読みのジョージアと呼んでいた。グルジアと呼んでいたのは、日本と中国、韓国と旧ソ連の国々くらいだった。2008年にロシアと武力衝突した旧グルジア政府は、翌年からロシア語由来のグルジアという呼称を変更するよう各国に要請していたが、結果として2015年以降、日本もジョージアと呼ぶようになった。国家間の関係が、国名の呼称にまで影響を及ぼすことは興味深い。

ちょっと離れて、インドネシアという国名は、「インド」に諸島を意味する接尾辞「ネシア(-nesia)」をつけたもの。

大航海時代にヨーロッパ人が主観的につけた名前で、インドの島々といった適当な意味だとか。同様に、タイ、ラオス、カンボジア等をインドシナ=Indochinaと呼ぶが、これもヨーロッパ人から見て「インド(India)と中国(China)の間」といった大雑把な命名である。

オセアニア=Oceaniaは大洋州と和訳されるが、スペルを見るとocean(オーシャン)からの命名とわかる。

一方、ユーラシア大陸のユーラシア=Eurasiaは、ヨーロッパ(Europe)とアジア(Asia)との造語である。

北に目を向けると、デンマーク領のグリーンランドという島がある。世界最大の島で、面積は日本の約6倍で、その85%は氷で覆われている。

名付け親は、ノルウェー生まれのアイスランドバイキング、エイリークという人物。

エイリークはグリーンランドに上陸するより前に、アイスランドを発見していた。 彼が命名したアイスランド(英語ではIceland)は、そのいかにも寒そうな名称故に入植希望者が現れなかった。その轍を踏まないよう、彼はこの地に入植希望者が多数現れるように、「緑の島」と名付けた。それがグリーンランドの由来であるが、それで入植者が現れるというのも何とも浅薄な気がしてならない。

ちなみにこの島の南部には緑の大地が広がっているそうである、念のため。

(群馬県保険医協会歯科版掲載のための原稿)

 

そうだったのか語源⑫ -日本語よりわかりやすい外来語-

若い方はご存じないかもしれないが、舶来という言葉がある。

舶来品などという使い方をするが、今ではめっきり使われる機会が少なくなったように思う。還暦を過ぎた人間からすると心なしか寂しい。

同じように、ハイカラなどという言葉も最近は滅多に耳にしない。30歳台以下の方々にはかえって真新しく聞こえるかもしれない。

さて「舶」とは、沖にもやいして岸には着けない大きな船を意味する言葉で、のちに海を渡るような大きな船を指すようになった。「船舶」もこの意味で使われる。

高度成長期以前の日本人にとって、舶来品とは、海外から船ではるばる運ばれてきた(高級)品というイメージが、長い間コンセンサスになっていたような気がする。

さすれば、舶来という言語には、我々日本人の「列強」に対するコンプレックスが多分に含まれていたのかもしれない。

昨今の日本人は、「Made in Japan」を見て安心するところがある。誇らしいことに疑う余地はない。もはや、舶来に「高級」といった意味がなくなったため使われなくなったという側面も否定できまい。

ということは、高度経済成長期の弊害もあるが、ある意味、そこで日本人のアイデンティティを再確認できたという評価も成り立つ。

やや、いやかなり今回のテーマから外れてしまった。

閑話休題。

もともと日本語は、かなり繊細なニュアンス(すでにこういった外来語に逃げてしまっている)まで表現できる言語だった。

かつて日本人に対して海外から、コミュニケーションに伴う表情が乏しいとの指摘があった。それはひとつに、日本語という言語が素晴らしく表現力があるからではないだろうか。

例えば、我々世代の日本人が初めて覚えた英語は[This is a pen.]。

普通、「これはペンです」と和訳する。

しかし、もしかしたら「これはペンだよ」かもしれないし、「「これはペンだぜ」あるいは「これ、ペンなのよ」かもしれない。こういう微妙なニュアンスを、ジェスチャーや発声の抑揚を交えずに表現できるのが日本語の卓越した表現力と言えまいか。

また、和英辞典より英和辞典のほうが、原語に対する訳がずっと多いことでも、いかに日本がより多くの表現を持っているかを如実に物語っている。

ところが、現在では本来の日本語より外来語を使ったほうが、話者聴者双方の概念を一致させやすい場合があることも事実である。

先ほど心ならずも使ってしまった「ニュアンス」という言葉だが、「表現、感情、色彩などの微妙な意味合い、色合い」というのが日本語による解説だが、個人的には「機微」という日本語が最も近いような気がする。

しかし、現在の日本のGDPを担っている中心的な世代以降の世代(回りくどい言い回しをしているが、その辺の機微を斟酌していただければ幸甚である)では、機微よりニュアンスのほうがイメージ(また外来語である)が伝わりやすいのではなかろうか。

ことほどさように、身の回りにはそういった意味のわかりやすい、換言すればそれに相当する日本語のほうがわかりにくい言葉は枚挙にいとまがない。

あるいは、日本語を弁護するようだが、日本語だとあまりに意味が直接的で、それをオブラートで包んだような表現のほうが、意思の疎通に際し角が立たないのかもしれない。

幾つか例を挙げてみたい。

先ほど心ならずも使ってしまった「イメージ」もそうであろう。

「心の中に思い描く姿形、情景、心象」という和訳だが、「イメージ」のほうが日常生活に馴染んでいるのは、簡単、かつ短い言葉だからかもしれない。もちろん、日本語にはない「舶来」的軽快さもその要素と考えられる。

また、「フィーリング=feelingが合う」とは、直訳すれば「感覚が合う」ということだが、性格が合うとか、相性がいいといった意味合いも含まれているように思う。

そういった概念を緩く最大公約数的にまとめあげて、しかも逃げ道も塞がないようにするには、フィーリングという外来語が実に便利なのである。

コンセプト=conceptという言葉も同様な使われ方をしている。「概念、意図、構想、テーマ」といった意味だが、日常生活に定着したのはそう以前のことではない。「舶来」語を用いることによるモダンさ、あるいはアカデミックな響きが受けたのかもしれない。

しかし、「舶来」語もあまりに一般化すると、ある意味新鮮さを失うためか、また別の国の言語が使われるようになることがある。

これはお店の名前などにも言えることである。

「イメージ」を仏語で「イマージュ」と言ってみたり、「ウェディング」を同じく仏語で「マリアージュ」、英語の「エアー」を独語で「ルフト」(医学用語としてかつては頻用していた)、「ズボン」を「パンツ、ボトム(ス)」等々。

その他、外来語のほうが日本語より頻用されている言葉の例を幾つか挙げてみたい。

郵便投函箱→ポスト

自動車でどこかへ行くこと→ドライブ

周遊旅行、団体旅行→ツアー

周遊船旅行→クルーズ

制御、統制、管理、規制→コントロール

対比、対照→コントラスト

程度、水準、段階→レベル

隅、部分、区画→コーナー

首位、最高幹部→トップ

触覚、筆づかい、指使い→タッチ

訴える力、魅力→アピール

地位(の高さ)、身分(の高さ)→ステータス

主導権→イニシアチブ(イニシアティヴ)

感覚、感性→センス(既出)

要求、必要性→ニーズ

献立表→メニュー(仏)

予定表、番組表→プログラム

料理の作り方、調理法、秘伝→レシピ

やり方、技術、知識→ノウハウ

上品で落ち着いている様子→シック(仏)

衣装、服装、身なり、出で立ち→コスチューム

顔形、容貌、器量、外見→ルックス

知識階級→インテリ(インテリゲンチア)(露)

特定の分野物事を好み,関連品または関連情報の収集を積極的に行う人

→マニア(近年では「おたく」という日本語が存在感を示している)

情報媒体→メディア

新聞、雑誌の編集者、記者→ジャーナリスト

運動選手(とりわけ陸上競技)→アスリート

不調、低迷→スランプ

根源、起源、祖先→ルーツ

禁欲的な生き方→ストイック

助手、補佐→アシスタント

特に優れた品質として認知されている商品の名前や標章→ブランド

基準、基礎、土台→ベース

思想、観念、信条→イデオロギー(独)

階級制、階層制→ヒエラルキー(独)

()は起源の外国語、それ以外は英語

まだまだ枚挙にいとまがないが、エンドレスになりそうなので、このテーマについては一応のフィナーレとしたい。

(群馬県保険医協会歯科版掲載のための原稿)

そうだったのか語源⑪  -社名について-

さて、今回はこれまでの流れから趣向を変えて、会社名の生い立ちに触れてみたい。

そこには、まず、会社創立に際しての生い立ちと思いの丈が感じられる。

まず日本の会社名において、トヨタ、ホンダ、マツダ等、「○田」と、「田」がつくものが多いが、これは先祖が農民だったことがうかがい知れる。これらの名前には、明治から大正、昭和へと、当時産業革命の流れの中、農業から工業への産業形態の遷移を感じられる。

「スズキ」も創業者の苗字そのものである。

では「ダイハツ」は如何。これがなかなか興味深い。

ダイハツは、わが国で最も歴史の長い量産車メーカーで、大阪工業高等学校、のちの大阪帝国大学工学部(現大阪大学工学部)の研究者を中心に、発動機製造メーカーとして創立された。その後工業化の中、「発動機」を企業名につけるメーカーが次々と出現したため、顧客のほうでどこのメーカーか識別するために「大阪の発動機」と呼称するようになり、いつしか「大阪発動機」、縮めて「大発」つまり「ダイハツ」となったのである。

日産はご存知の通り、かつてのコンツェルンである「日本産業」に由来する。

マツダは創始者の松田重次郎の名前に由来するが、MATSUDAではなくMAZDAである。これは、自動車業界の英知を願って、ゾロアスター教の全知全能の最高神アフラ・マズダー(Ahura=主 Mazda=賢明)にかけて命名している。

ユニークなのは、光学機メーカーである。

「ニコン」は、日本光学工業株式会社から派生した命名である。ちなみに、もともとは光学兵器メーカーである。

「キャノン」は面白い。

観音菩薩の慈悲にあやかりたいとの思いから、当時試作機にKWANON」(カンノン)と命名した。1934年のことである。翌年、世界に通用するカメラメーカーとして社名をCanonとした。面白いのは、現在でも正式な日本語表記は「キャノン」ではなく、「キヤノン」(ヤは大文字)である。

次に、現在社名が「コニカミノルタ」となった、かつての「ミノルタ」に触れてみたい。

「ミノルタ」は創業当時、「Machinery and INstruments OpticaL by TAshima」という英語の文字からとったものとされている。この名は、創業者の田嶋一雄によって名づけられたものであるが、『稔る田(みのるた)』の意味も含んでいるとされている。創業者の母が、「稔るほど頭を垂れる稲穂のように、常に謙虚でありなさい」と言っていたことを肝に銘じておきたかったからとも言われている。なかなかの命名である。

さらに面白いのは「ゼンザブロニカ」であろう。

知る人ぞ知る中判カメラの代名詞であるが、惜しまれつつも2005年に創業47年の歴史に幕を閉じた。

なんだかドイツのメーカーを思わせる社名であるが、れっきとした日本のメーカーである。

創業者は吉野善三郎。

彼の善三郎という名前と、ブローニーフィルム(中判カメラ用のフィルムの総称)を懸けて、「ZENZABRONICA」と命名した。

昨今知的財産の海外流出等が問題となっているシャープについて。

1915年、金属製の繰り出し鉛筆を開発した。その名はシャープペンシル。社名は一世風靡したこの自社製品の名に由来している。

ゲーム機のメーカーでは、セガとバンダイ、任天堂が面白い。

セガは、旧社名を「サービス ゲームズ ジャパン株式会社」といった。やや長く、覚えにくい名前である。そこで、Service Gamesの2文字ずつをとってSEGA=セガとした。

バンダイは、中国の兵法書の「永久に変わらないもの」を意味する「萬代不易(ばんだいふえき)」から命名したものとされている。

一方任天堂は、三代目社長が、「人生一寸先が闇、運は天に任せ、与えられた仕事に全力で取り組む」という社是を掲げたことに由来するとされている。

分野は違うが、資生堂の名は、中国の古典から引用しているそうで、「至哉坤元 萬物資生」がそれであるが、これは難しい。

「大地の徳はなんとすばらしいものであろう。全てのものはここから生まれる」という意味だそう。

これに比べて三省堂はわかりやすく、中国の論語の「吾日三省吾身」で、「私は日に三度我が身を振り返る」に由来しているそうである。

私は携帯を持たない人間であるが、ドコモはDo Communications Over The Mobile Networkの頭文字でできている。

決して「何処も」ではないのだが、日本人なら無意識にそう思い込むだろう。うまい命名である。

最後に、歯科関係者は誰もが知っているGCというメーカーについて触れておこう。

今でこそ、歯科器材メーカーとしてメジャーとなっているが、これはもともと東京池袋の化学研究所がその前身となっている。GCとは、General Chemistry(総合化学といった意味か)の頭文字をとったものである。ある年齢以上の歯科関係者は「而至」(ジーシーと読む)という社名を見たことがあると思う。

これは戦時中、敵国の言語である英語の使用を避けた際に、而至化学研究所という社名を使用したことの名残りであるが、戦後も長く使用されていたところを見ると、この会社が漢字のこの名前を気に入っていたのではないかと想像される。

企業の社名も、企業時の創業者の思い入れが偲べてこれまた興味深い。

(群馬県保険医協会歯科版掲載のための原稿)

 

そうだったのか!語源⑩  −常用の外来語 その2− アナログとデジタル

これらの言葉は、すっかり日常生活に溶け込んで、日本語で説明するほうがずっと困難ではなかろうか。

デジタルという言葉が最初に日本で使われたのは、私のつたない記憶では腕時計だったような気がするが定かではない。

それまで時計といえば、長針と短針、さらに秒針が文字盤の中央の同軸上で回転して、それぞれ分と時間、秒を針の先端が指し示すものだった(言葉で表現するとややこしい)。1970年、世界初のデジタル腕時計が発売され、その後液晶表示になりあっという間に流布した。

一方アナログという言葉は、デジタルの登場によってそれに対比した形で使われるようになった。事実、それまでは針表示の時計をあえてアナログ時計とは呼ばなかった。

かような経緯のせいか、アナログが古くデジタルが新しいといった感覚が多分にあるようだが、元来の意味はかなり異なる。

analogはanalogyという英語から派生した言葉である。analogyには、類似や相似、類推といった意味がある。さらにその元となったギリシャ語のαναλογίαは比例という意味だとか。

この、そもそもの言葉の源である「比例」の意味に着目してみたい。

ここでいう「比例」とは、数学で用いる正比例などの比例とは異なる。

ここでは、ある物の状態を逐一別のある物で表示することを指す。逐一なので全ては連続して表示される。

つまりアナログとは、連続したもの(の変化)を他の連続した量で表示することである。

時計を例にすると、連続した時間の変化を連続した針の動き(角度)で表示する。

また温度計なら、連続した温度の変化を連続的に増減するアルコールの量(目盛りの値)で表示する、といった具合に。

一方のデジタルとは如何に。

まずdigitalだが、digital量は離散量と訳され、とびとびの値しかない量を指す。

そのもとのdigitとは、アラビア数字つまり整数を表すが、もともとは指という意味だった。

digitalis=ジギタリスという多年草をご存知の方も多いと思う。夏に鐘状花と呼ばれる釣鐘状の小さな花をたくさんつける。この花の形が指サックに似ていることから、digitという表現が使われた。

その指がデジタルとどう関係するのか。

数を数えるときに、古今東西を問わず、指を折るという習慣があるようだ。

「指折り数えて待つ」などという表現もある。

ちなみに、人間の指が通常左右で合計10本だったことが十進法の普及につながったという説もある。

つまりデジタルとは、ある物の状態を数字(整数)で表現したものをいう。

ちなみに、アナログはこれを実数で表示したものともいえる。

別の表現を使うと、アナログの小数点以下を四捨五入して一の位で表現したものがデジタルである(もちろん、小数点以下2位を四捨五入して、小数点以下1位で表現することもありうるが、いずれにしてもそれは実数ではない)。

整数は実数ではないので、たとえばアナログで、

1.2  1.3  1.4  1.6  1.8 と変化したものはデジタルではそれぞれ、

1    1    1    2    2   と表現される。

 

蛇足ながら、digitalの正確な日本語表記は「ディジタル」だが、我々日本人にはすこぶる発音しにくいので、通用表記として「デジタル」になったと思われる。

そういえば、Disney はかつての日本では、圧倒的に「ディズニー」でなく「デズニー」と発音する人が多かったし、Dieselも「ディーゼル」でなく「ジーゼル」だった。

近い将来、「デジタル」と発音すると若者との世代の差を感じるようになるかもしれない。

(群馬県保険医協会歯科版掲載のための原稿)

「そうだったのか!語源」⑨  常用の外来語

今回は、頻繁に使う常用の外来語について考察してみたい。

さて、マニュアルと聞いて真っ先に連想するのは、取扱説明書、指導書、手引(書)という意味合いで使う場合と、自動車のオートマ(オートマチック)に対するマニュアルという使い方ではないだろうか。

マニュアル=manualのmanu-はラテン語のmanusが起源で、手や指を表すことばである。

前者の意味はどこから来るのか。

Concise Oxford English Dictionary(以下、COED)には、manualの訳のひとつに、

[a book giving instructions or informations]

とある。

これから類推するに、指導書あるいは解説書というのが元の意味に近いと考えられる。

仮にmanualに「手で持てるくらいの」という意味があるのなら、bookの前にhandy あるいはsmallといった形容詞があってもよいはずである。

ちなみに、手帳は英語では notebook あるいは pocket book という。

つまりこの場合のmanualには、指導、指南といった意味合いが強く、日本語の指と同義で「(指で)指し示すもの」を表していると考えるのが妥当ではなかろうか。

次に、後者の自動車のマニュアルは文字通り、manual transmissionの略で、手動の変速機のことである。

ちなみにtransmissionには、厳密には日本語の「変速機」という意味はない。

trans-は、「越えて」「横切って」「別の場所へ」という意味があり、missionは「伝える」という意味がある。

例として、transport=輸送(別の場所へ運ぶ))、TPP=Trans-Pacific PartnershipやTransam=trans American(アメリカ大陸縦断)等がある。

ちなみにmissionは「伝える」という意味で、transmissionは直訳すれば、「エンジンの動力をそこから離れたタイヤに伝える装置」ということになる。

ミッションスクールとは、キリスト教団体が異教世界でのキリスト教布教(伝える)のために設立した教育施設をさす。

マニュスクリプト=manuscriptは原稿という意味もあるが、文字通り訳せば手書きということになる。

マニキュア=manicureは手(や爪)の手入れ、 manufactureはもともと工場制手工業を指した。

我々に関係するものとしては、医療廃棄部処理の際に必要となるマニフェスト=manifestoがある。母音で終わっていることからも推測できるように、もともとはイタリア語で、「手で打つ」という意味だった。それが「手で感じられるほど明らかな」という意味に派生し、「はっきり示す」となり、声明(文)、宣言(文)を意味するようになった。

余談だが、足に関係するものにはped-が使われることが多い。

pedal=ペダル、pedicure=ペディキュア、pedestrian=歩行者用の(例、ペデストリアンデッキ)、pedller=行商人といった具合に。

さて以前、⑤でAED=Automated External Defibrillator について少し触れたことがある。

今回は、automaticとこのautomatedの違いについて考えてみたい。

日本人にはわかりにくい違いではないだろうか。

私も調べるまでは、AEDのAはなぜautomaticではないのかと疑問に思っていた。それゆえ今回調べるきっかけとなった。まさに無知は知なり。

automaticについて、COEDには、次のような説明が記載されている。

  1. (of a device or process)working by itself with little or no direct human control.

2.done or occurring without conscious thought.

1.→(装置やプロセスにおいて)人間によるコントロールが全くないかごく少ない

2.→無意識化で行なわれる動作や事柄

これらから、日本語で一般的に言うところの「自動」、あるいは「無意識」「自然な」といった意味が近いと思われる。

一方のautomatedは、「(工場、工程が)オートメーション化された」という意味合いが強く、機械により制御、コントロールされているもの、あるいは状態を指している。つまり、あくまでもあるプロセスにおいての機械による自動化である。

次のような表現が実際あるかどうかは定かではないが、automatic smileは自然な(無意識な)微笑みだが、automated smileは機械によって作られた微笑みで、ニュアンスは随分違ってくる。

したがって、AEDはあくまでも機械がそのプロセスを制御している装置であり、すべて自動でやってくれるものではないと捉えるのが妥当であろう。実際、周囲の環境や機械の設置,整備(水分を排除するとか)は人が行わなければならない。

昨今、自動車の自動運転化が急速に進みつつあるが、少なくとも現時点ではそれはautomatedの領域であり、真のautomaticになるにはまだまだ技術進歩のための時間が必要であろう。

そもそも、自動車の「自動」とは、自ら動く車という意味である。かつて動物や人力で動いた移動手段が、クルマ自らの動力で動いたためにこの自動車という名前が生まれたわけである。automaticとは程遠いものである。

(群馬県保険医協会歯科版掲載のための原稿)

「そうだったのか!語源」⑧   ー病名ー

今回は病名について触れてみたい。

 

  • 卒中

「卒」と[中]が結びついた言葉。

まず「卒」だが、「衣」と「十」から出来た漢字で、はっぴのような上着を着

て、十人ごとに一隊になって引率される雑兵や小者を表すとされている。小さいものという意味もある。一方、「にわかに」という意味もあるが、これは「猝」に当てたもので、にわか、すみやか、突然という意味をもっている。

また、小さくまとめて引き締めるという意味から、最後に締めくくるという意味となり、「終わり」の意味を派生したと言われている。「卒業」はこの例である。

やや話が長くなったが、卒中の場合、実は「にわかに」「突然」の意味で用いられている。卒倒はその一例である。

では「中」とはいかに。

これは元々象形文字で、旗ざおを枠の真ん中につき通した状態を表現したもので、真ん中の意味とともに真ん中を突き通す意味も含む。「中る」と書いて、「あたる」と読む。

つまり、的の中心を突き通すという意味、つまり「あたる」という意味がある。

「命中」「的中」などはこの用法である。

したがって、卒中とは、「突然起こる(あたる)」という意味の病名である。

もともとは卒中風(そっちゅうぶう、そっちゅうふう)の略とされ、「中風」「中気」とは、風など外界からの刺激にまともにあてられた病気という意味である。

最近よく耳にする熱中症も、熱に中る(あたる)という意味かと考えられる。

蛇足だが、中毒も、小毒と大毒の中間だから中毒というわけではなく、毒に中る(あたる)という意味である。

 

 

  • 結核

結核菌が体内に入ったとしても、必ずしも感染するわけではない。

多くの場合、マクロファージ等の免疫により排除されるが、ときに菌が体内にしぶとく残ることがある。その場合、免疫機能により、結核菌を取り囲み、「核」を作る。結核の名は、ここから来ている。

ところで、結核は英語でtuberculosis、略語でTB(「テーベー」は独語読み)という。

tubercul-は、ラテン語のtuberculm=芋から派生していると考えられる。

解剖用語では結節である。結節も、芋のように「ころん」としている塊りのイメージがあったのだろう。つまり、ぎゅっと凝縮されたもののイメージがtuberculmと考えられる。ここまでくると、ターヘル・アナトミアの世界に近い。

ちなみに、ツベルクリン(tuberculin)は、結核診断用の注射液。

 

  • インフルエンザ(influenza)

ご存知の通り、インフルエンザウィルスによって引き起こされる急性感染症で、日本語では流行性感冒と訳される。感冒とはその名の通り、感染して冒されるという意味で、なかなかの名訳だと思う。

ところで、influenzaという病名は、16世紀のイタリアでつけられた。英語のinfluence=影響、感作、感応と同源である。感冒と感作に同じ「感」の字があるので、やはり感染の意味からできた言葉かと思っていたら、どうもそうではないらしい。

インフルエンザは、毎年冬になると決まって流行し、春を迎える頃になると終息する。

そこで当時の占星術師らは、インフルエンザは、天体の動きや気象上の寒気の影響によって発生、終息すると考え、影響を意味するinfluenzaを当てたとする説が最も説得力がある。

 

  • 梗塞

国語的には、塞がって通じなくなることをいう。

医学的には、動脈が塞がることによって、その流域下の組織に壊死が起こることをいう。

「梗」には、芯になる硬い棒や芯のあるとげの意味があります。この「硬い」や「棒」というのが何を指すのか、勉強不足で分かりかねる。あくまで想像だが、「血栓」「塞栓」というと血液の塊という具体的なイメージが読み取れるが、「梗塞」には「栓」という具体的ものがない。したがって「梗」は棒状のもの、つまり血管を指すのかもしれない。あるいはやはり、芯のような「塞いだ物」を表している可能性も否定できない。

 

  • 麻痺

神経機構、あるいは筋機構の障害によって、部分的な運動機能が喪失、あるいは低下する状態を指す。

「麻」は、大麻、亜麻、黄麻等の総称。大麻は麻薬成分を含み、ここから「しびれる」という意味を持つようになり、「麻薬」「麻酔」「麻痺」といった言葉が生まれた。

「痺」は訓読みで「痺れる=しびれる」と読む。

したがって、「麻痺」は同義語の熟語である。

 

  • 不全

字のごとく、全うしないこと、きちんと機能しないこと。不全の前には器官等の部位あるいは機能が表示され、それが悪化した結果が「○○不全」となる。

 

・ 突発性 (とっぱつせい)とは、突然発症すること。

ex,突発性難聴 突発性発疹

特発性(とくはつせい)は、特定の原因が見つからないのに発症すること。  「原因不明な」を意味するidiopathicの日本語訳である。

ex,特発性心筋症 特発性癲癇

「そうだったのか!語源」⑦  −旁と偏−

今回は漢字の成り立ちについて考えてみたい。

ちなみにこの作業を解字という。

漢字は多くの場合、旁(つくり)と偏(へん)あるいは冠から成り立っている。

そして、同じ旁をもつ漢字には共通して表現するものがある。

身近なものをいくつか取り上げてみたい。

 

まずはじめに、「主」という旁を見てみよう。

この旁は、元々燭台の上にじっと立って燃える灯明を表した象形文字であり、一つ所にじっとしている様を表している。

例えば「柱」では、木偏はもちろん木に関係することを意味する。つまり、じっと立つ木、あるいは立って支える木を表している。

では、同じ旁をもつ「住」という漢字はどうだろうか。

これは、人偏なので人に関わり、人がじっと同じところにとどまることを表している。従って、本来「住」は人に限定して使われ、鳥獣には「棲」を当てていた。

同様に、「駐」という字は馬が同じところにじっとしている様子、つまり馬をつないでいる様子を表現している。「駐車」は、かつての馬がクルマに代わった状態であり、「駐在」は一定の場所にとどまっている様を言う。

「注」は、水が柱のような形で同じ部分にそそがれる状態を表している。「注目」や「注意」などの熟語で使われるように、英語で言うならば、concentrated に近いニュアンスと考えられる。

ちなみに「往」であるが、この旁はこれまでの例とは起源が違い、元来「王」から転じたものであり、大きく広がる様を表し、「往」は大きく広がるように前進することを意味する。

次に、「悦」などの旁の「兌」について見てみよう。

これは、「八」と「兄」から成り、(大きい)子供の衣服を左右に分けて脱がせる様を表しており、広い意味では剥ぎ取ることを指す。

この旁に身体を表す肉月がつくと「脱」で、身体からものを剥ぎ取る、つまりぬぐという意味になる。

次に、禾(のぎ)偏がつくと税金の「税」。

禾偏は収穫を意味するので、「収穫したものを剥ぎ取る」とは、まさしく「税」そのものを表している。奇しくも「脱税」にはともに「兌」がついているが、剥ぎ取られるものからさらに逃れるわけであるから、いわば裏の裏をかく行為である。

では、最初に引用した「悦」はどう説明したらよいだろうか。

この立心偏は心や気持ちなど、精神的なものを表す偏である。

剥ぎ取るのは、心に覆いかぶさった不快なものである。すると心が晴れ晴れとして気分がよくなる、そういった状態を意味している。「悦」という字、なかなか意味深長な成り立ちではないだろうか。

これと少し似たような成り立ちの字として、「夬」が挙げられる。

この旁が使われている文字としては、「決」「快」「玦」「缺」「訣」「抉」等が挙げられる。が、当用漢字として使われていない字が意外に多い。

この「夬」は、右から左に向かって手が何かをつかもうとしている象形文字が起源となっている。この旁の本来の意味が最もよく表現されている字が「抉」であろう。この字を「抉る=えぐる」と読める方は、漢字検定2級レベルではないだろうか。

さて、「決」は水が関係していて、水が堤を切る様を表している。「決壊」という熟語からそのニュアンスが理解できよう。

そこから派生して、「決断」「決定」などのように物事をきっぱりと分けるという意味が使われるようになった。ちなみに、「玦」は一部を欠いた環状の玉を指す。

「決勝」は勝ち負けをはっきりさせること、「自決」は、主義主張を貫くため、あるいは責任を取るため自ら方針を決めたり、自らの命を断つことを意味する。

では「快」はどうだろうか。

なんと、心中のしこりというネガティヴなものをえぐり取ることを意味している。これがなくなれば心が晴れ晴れとして、さぞかし気持ちがよいだろう。

「悦」の成り立ちとダブるところが興味深い。

人生、悩みがつきものというところから派生したように思える「悦」や「快」だが、発想が妙であり面白い。

人生が「悦」や「快」ばかりでは、そもそも小説などという面倒臭い文学は存在する意味さえない。

次に、「肖」という字を取り上げてみたい。

この字は「小」と「肉」から成り、元々の肉を削って、原型に似た小型のものを作ることを表している。「肖像」などはこの元来の意味に近い使われ方である。また「不肖」とは、元になるものに似ていないこと、師匠や親に似ていず、劣っていることを言う(ちなみに、「似る」は「肖る」とも書く)。

「消」は火の勢いを水で小さくすること、「削」もけずって小さくすることを意味する。「梢」は木の先の小さくなった部分を指し(木の末なのでこずえ)、「哨」は口を細くすぼめて合図の口笛を吹く様を表し(動物でもサルなどは警戒時にこういった仕草をする)、転じて見張りを意味するようになった。哨戒機の「哨」はこの意味で使われており、英語ではpilotという言葉が当てられている。

やや本筋から外れるが、「消息」という言葉は、「消」が消える=死を、「息」が生きていることを指し、「生死」から様子、便りという意味を派生した。

さらに「寺」という旁に触れてみたい。

この字は、手を意味する「寸」と足を意味する「之」から成り、手足を動かして仕事をすることを表現している。また「之」には止まるという意味もある。

「時」は時間が動くことを意味し、「持」は手にじっと止めることを意味している。「詩」心の進むままを表したもの、あるいは心に止めたものを表したものである。

「寺」は、中国の漢の時代に、西域から来た僧を泊めて接待する施設を指し、のちに仏寺の意味で使われるようになった。

「待」は手足を動かして相手をもてなすことを表している。

「侍」は「寺」から派生し、身分の高い人の世話をする人たちを寺人と言ったが、役所や仏寺の意味に転用されるようになった。今では武士に近い意味で使われているが、時間の経過とともに随分違った使われ方になった。

「台」という旁は、上が曲がった鋤(すき)の棒を描いたもので、道具を使って仕事をすることを表し、下の口は人間が言葉を発して行動をし始めることを表している。

「始」は女性としての行為の起こり、つまり初めて胎児を腹にはらむことを表しており、のちに広く物事の始まりを意味するようになった。

いま使った「胎」も、人間が行為をし始める、動き始めた腹の中の赤子を意味している。「始」も「胎」も元の意味は近いようである。

「飴」の旁は、始まりという意味より人間が手を加える意味を表し、穀物を加工して作ったものという成り立ちである。

最後に「義」という字は、「我」と「羊」から成る。「我」はかど目が立ったほこを描いた象形文字、「羊」は形のよいヒツジの意味で、きちんとして格好がよいものを表現している。そこから「正しい道」という意味も生まれた。正義や定義などはその意味での使い方である。その他、「外から来て固有でないもの」「本物に近い」という意味もある。義歯や義足、義父などはこの例である。

ただし、この「正しい」と「近い」という意味がどこで結びつくのかはまだ勉強不足でわかりかねる。

紹介した旁はほんの一部だが、旁に内在する本来の意味を知ると、そこから派生した字の生い立ちや変化の過程を想像でき、とても興味深い。

(群馬県保険医協会歯科版掲載のための原稿)

「そうだったのか、語源」⑥ -間違った言葉の使われ方-

blog_import_4cee9c8167527_edited-1

しばらく医学関係の言葉について触れてきたので、この辺で対象を少し変えてみたい。

今回は、本来の使われ方から変化して使われている言葉、あるいは間違って使われている言葉について考えてみたい。

ただ、現時点では間違った使われ方であっても、時代の経過でそれが正しい(間違っているとは言えない)使い方になってしまうものも多いので、必ずしも誤用とはいえない例も多い。

 

たとえば「とても」という副詞。

現在は「とても美しい」と、very=肯定的な文章に使われても違和感がないが、本来は「全然」と同義で「とても—ない」と否定的に使われていた。

そういえば、最近若い方々の間では「全然」も肯定的に使われている。

「全然大丈夫」といった具合に。

 

さて、代表的なものを幾つか挙げてみたい。

 

・確信犯

最近では、本人が悪いこととわかっていて行う行為、あるいはその人をさすことが多い。

本来は、道徳的、宗教的、あるいは政治的信念に基づいて、本人(たち)が正しいと確信してなされる社会的犯罪あるいはその人(たち)を指していた。

つまり、本人(たち)は正しいと信じて行っていることが、社会的には犯罪であるという、そういう行為やそれを行った人(たち)に対してつけられた表現である。

全く意味が異なるので、使うときにどちらの使い方か断る必要があるのは、ある意味面倒である。

 

・言語道断

本来は仏教用語で、「言葉で表現する方法が絶たれる」という意味で、それほどまでに奥深い真理を指していた。

それが転じて、言葉を失うほどひどいこと、とんでもないことを指すようになった。それにしても随分とあらぬ方向に転じたものである。

 

・破天荒

豪快、型破り、あるいは大胆といった意味で使われることが多い。おそらく字からくるイメージでそう使われているのかもしれない。

本来は、中国の古事成語から。

「天荒」とは未開の地のことで、それを破るということで、今まで人が成し得なかったことを成就することを表す言葉である。「日本人初」や「人類初」といったところか。

ちょっと勇み足で「前代未聞」「空前絶後」という広義の使われ方から、先の間違った意味で使われるようになったのかもしれない。

 

・ 相合傘

こちらは逆に、字からわかる通り、一本の傘の下に二人以上の人が入っている状態をさす。「愛」の字が連想されるのか、男女二人というイメージが浮かぶが、必ずしも異性同士とは限らない。男同士でも全く問題ない。

相傘ともいう。

 

・鳴かず飛ばず

「『三年』鳴かず飛ばず」が出処の中国の故事で、実力のある者が活躍の機会に備えてじっと待っているさまを指す。したがって、もともと才能や力のない者が活躍できないでいるような使い方は、本来の意味とやや違っている。

 

・潮時

「物事をやめる頃合い、タイミング」といったネガティブな意味合いで使われていることが多い。

「潮の満ちる時、あるいは引く時」がもともとの意味で、つまり「ちょうど良い頃合い、タイミング」を指し、よりポジティブな意味合いの方が強い。もっとも、やめることをポジティブにとらえて引用するなら必ずしも間違いとは言えないが。

 

・姑息

「姑息な手段」等、現在では「卑怯」と同義で使われることが多いが、これは誤りである。本来は、根本的な解決法ではなく、一時しのぎ、間に合わせにすることをさす。

医療では「姑息療法」という言葉が使われるが、これは「対症療法」と同義であり、「姑息」の本来の使い方に近い。

この意味では、歯科では「temporary=一時的な」という言葉を使うが、一般的にはmakeshiftあるいはtemporizingという英語が相当するらしい。

 

・恣意的

本来は、論理性がなく、思いつきで行動する様子や、自分勝手に行動する様子を指す。もっとわかりやすく言えば、計画性がない、思慮が足りないといった様を表しているのであろう。

ところが最近の使われ方をみていると、例えば国会の質疑答弁などでも反対語に近い「意図的」あるいは「作為的」の意味で使われていることがある。どこか言葉に裏がある、狡猾なイメージが漂う。

近い将来、この間違った使われ方が常用になるのかもしれない。

 

・遺憾

本来は、期待したようにならず、心残りであること、あるいは単に残念であることの意味である。

近年では、政治家やそれなりの立場にある人の口から、事後の記者会見等で「遺憾に思う」という表現をよく耳にする。

この場合、自らあるいはその周囲の行い等に対し、残念なことという表現をしているのである。つまり、法的には問題ないものの想定外であるといった、やや責任逃れのニュアンスが含まれているのである。

ここには謝罪の意味が含まれていないというのが一番のミソである。

要は、「遺憾」を口にしたのちの行動こそが肝要である。

人はミスをして成長する生き物である。ミスを生かせるか否か。

反省して、その後の行動に生かせればよし、変わらなければ「いかん」ともし難い。

 

・役不足

本来は、その人の力量より低い仕事や役割を与えられることを指す言葉である。

誤って、逆の意味で使ってしまっていることがある。

であれば、「力不足」あるいは「役者不足」であろう。自らを謙遜したつもりで誤用しないようにしたいものである。

 

以上、私がこのようなコメントをすること自体、役者不足の感が否めない。

(群馬県保険医協会歯科版掲載のための原稿)

「そうだったのか!語源」⑤

blog_import_4cee9c8167527_edited-1

今回も引き続き、医学関連の言葉に触れてみたい。

日本人が英語、ドイツ語等で表記された言葉を覚えるのは、非常に面倒だし、覚えにくい。

例えば果糖という単糖。

ショ糖は、スクラーゼ(インベルターゼ)により分解され、ブドウ糖と果糖になる。果糖は、フルクトース、あるいはフラクトースの日本語訳である。

英語圏の人ならfructoseだけ覚えればよく、しかもfru-からfruitが連想され、-oseで、糖であることが想像できる。ちなみに、maltose(麦芽糖) のmaltは麦芽で、日本ではモルツというビールで有名になった。また、lactose(乳糖)のlac-に対し、日本語で同音の「酪」をあて「乳」の意味をもたせている。したがって酪農の意味が理解できよう。

ラクトバチルス(ラクトバシラス)やラクトフェリンも「乳」に関係がある。

ご存知のことと思うが、sucraseのsuc-は英語のsugar 、ドイツ語のzukkerと同義語である。

一方、日本人はこの果糖の呼び名をフラクトース、フルクトースと、3つとも覚えなくてはならない。国家試験にはどの呼び方も出題される可能性がある。

同様のことは、甲状腺ホルモンであるチロキシンでも言える。

thyroxine は以前はドイツ語読みでチロキシンと言っていたが、最近では英語読みでサイロキシンと呼ぶことも多くなった。thy-を「チ」と呼ぶか「サイ」と呼ぶかの差だけなのだが、アルファベットを見なければ、日本人にはそれらの関係性が見出しにくい。

しかも、thyroid gland=甲状腺から分泌されるからこの名前が付けられているが、日本人には両者は名前だけでは結び付きにくい。ちなみにthyroidとは、ギリシャ語で「扉のようなもの」を表している。さらにparathyroid glandは直訳では傍甲状腺となろうが、それに近い和訳は副甲状腺、しかし上皮小体という和名もあるのでややこしい。

さて次に、副腎髄質ホルモンの一つであるアドレナリン。

腎臓はラテン語ではrenibus、イタリア語でreneで、副腎は腎臓にくっついている臓器でad-+reneで、英語ではadrenal glandという。そこから分泌されるから、アドレナリンと考えると自然である。副腎皮質ホルモンであるコーチゾールやコルチコイドは、当然cortic=皮質から派生した名前と理解できる。

また話は変わるが、フィブリノーゲンは血漿タンパク質のひとつで、血液凝固に関係する。

血液凝固の過程は実に複雑で、何段階にも分かれていて、すべての反応が順序よく完結しないと血液凝固は起こらない。つまりは、そう簡単に血液が凝固しては困るからであろう。

いずれにしろ、最終段階でフィブリノーゲンがフィブリンになると血液凝固が完了するわけである。フィブリンは線維素、フィブリノーゲンは線維素原と和訳される。fibrin fibrinogenと書くが、fibとはfiber=線維の意味である。

「ファイブミニ」という飲料があるが、もちろん5ではなく食物繊維を表すfib-から作られた商品名だろう。

余談になるが、ドイツ語読みの-genに、奇しくも発音の似ている日本語の「原」が当てられているのもおもしろい。

fibrinogenの他にも、antigen(抗原)やallergen(アレルゲン)、pepsinogen(ペプシノーゲン)等がある。もちろん英語読みでは「ジェン」であるが。

ちなみにAEDは、Automated External Defibrillatorの略名で、自動体外式除細動器と和訳される。

ここでdefibrillatorだが、fibrilは細かい繊維を表す。fibrillationを細動と訳すが、細かい繊維のような繊細な動きを表現したと考えられる。それにde-という対義を表す接頭語をつけて、除細動という意味になる。

事ほどさように、こういった名称の成り立ちは、アルファベット圏ではある程度推測が可能なのだろう。日本人としては羨ましい限りである。

(cf.一般的にはfiberには「繊維」の字が使われるが、「線維」とは医学用語で、体内の組織の場合に用いられる)

(群馬県保険医協会歯科版掲載のための原稿)

「そうだったのか!語源」④

blog_import_4cee9c8167527_edited-1

医学関係の語源の続編である。

まず血管について。

血管には大きく分けて動脈と静脈がある。もちろん、心臓からみて末梢になると、当然両者の明確な区別は難しくなる。

「動」と「静」は、脈拍という心臓の動きの影響がはっきりしているかどうかを表している。動的と静的、動物と静物等と同様の関係か。

解剖学的には、心室に連結し心臓から送り出す血液を入れている血管が動脈、心房に連結し心臓に戻る血液を入れている血管が静脈ということになる。入れている血液の「質」には関係ないため、右心室と肺を結ぶ肺動脈には静脈血が、肺から酸素を取り込んで左心房に戻る肺静脈には動脈血が入っている。心臓に戻ってくる血管は当然心臓の弛緩収縮の影響を受けにくい。

さて、英語では血管を blood vesselという。vesselとは容器や船、あるいは人を表している。元々は「うつわ」を意味していたのだろう。船は、中に人や物を入れて運ぶうつわ、人は魂のうつわという解釈ができる。

日本語でも「容姿」という言葉がある。「容」は「容器」「容積」というように入れ物を表す。つまり容姿は、人間そのもの(精神、魂=spirit)の入れ物の「すがたかたち」という意味であろう。外見というものは、決して人間そのものではないという考えがそこに感じとれるのは興味深い。

ちなみに、the weaker vesselとは新約聖書に源を発する言葉で女性を表す。

ただ、厳密には weaken vesselとなっているので、もしかすると先の英語は誤訳の可能性も否定できない。女性を「弱き器」と訳したことが、その後の人類の歴史に大きな誤算を生んだのかもしれない。今後の続編で触れるつもりだが、女偏の字は男編のそれに比べ、圧倒的に多いのだ。女性を弱者と決め付けることなかれ。

 

次に、神経について。

「神経」とは江戸時代、前野良沢、杉田玄白らがオランダ語訳の「ターヘル・アナトミア」(原書はドイツ語である)を「解体新書」に翻訳する際に、オランダ語の「zenuw」の訳として「神気」と「経脈」を合わせて作られた造語とされている。

「神気」とは「精神」や「気」を指し、「神」の字には魂や心という意味もある。「経脈」は経路のことで、つまり「精神」や「気」の流通経路を表している。

血管とは違い、中を流れる血液のように具体的な動きを視覚的に確認できるものではないが、経路を通じて情報を伝えていることは確かだったので、このような呼び方が定着したのではなかろうか。

ちなみに、英語のnerveの原義は意外にも「筋」や「腱」であり、現在の「神経」より「道すじ」つまり経路の概念に近かったようである。

神経には、求心性神経(感覚神経)と遠心性神経(運動神経)がある。

自律神経であっても例外ではなく、前者は内臓の状態を把握するセンサーであり、前者の情報をもとに後者は内臓の動きを促進あるいは抑制し、結果として恒常性を維持する役目を果たしている。

ちなみに、「神経質」という場合は、主に求心性神経の過剰な興奮状態を指すと考えられる。

たまたま感覚という言葉が出たが、ご存知の通り、senseあるいはfeelingという英語の和訳である。

感覚とは、ある感覚受容器に対して適当刺激(ある受容器に活動電位を起こさせる刺激 ex.光→視覚 音→聴覚)が加わり、その活動電位が、担当する中枢に伝達されることをいう。

つまり、感覚受容器が刺激を感じて、それを脳(中枢)が刺激として認知、あるいは認識(=覚)することである。

感覚受容器がsensor であり、sensibleには分別がある、実用的な、気付いているといった意味がある。一方、sensitiveには敏感な、神経質な、過敏なといった意味がある。

以上は感覚の生理学的意味であるが、哲学的な意味はまた異なるようである。

「センスがいい」という表現には、より哲学的な意味合いが含まれている。 common sense=常識にも同様のことがいえる。

これらは、感性という日本語の方がより意味合いが近い気がするが、哲学では感性は理性より下位に位置付けられているそうである。

それにしても、センスという言葉はほとんど日本語化していて、ニュアンスなどと同様、ある意味日本語より使いやすいようである。

さて世の中、理性だけでは窮屈だが、感性ばかりでは危うさを覚える。似たようなことを、明治時代の文豪が山路を登りながら七五調で謳っていたように記憶している。

だいたい理性だけでは小説自体が成り立たない。

こうしてみると、人間とは実にやっかいな生き物である。

さて、個人的感覚からすると(コンセンサスも得ぬうちから感性、感覚という言葉が出過ぎるきらいもある。これこそが自己矛盾か)、感性とは言葉では明確に根拠を表現しにくいようである。スポーツの世界でいうと、タイムや距離など数値で評価する競技ではなく、体操やフィギュアースケートでいうartistic impressionに近い感覚に思える。

ある人は「センスがいい」と思っても、他の人はそう思わないかもしれない。そして、それ自体が正しいかどうかは、根本的には誰もジャッジすることはできない。否、百歩譲ってジャッジできたとして、そのジャッジする人自身が中立的かどうかは、誰がジャッジするのだろうか。ボクシングなどでは往々にしてそう感じることがある。

世の中には、こんな矛盾は山ほどある。

だから、自分自身を卑下する必要もなく、さりとて、自分自身を過信することもできないのではなかろうか。

なんだか、理論的な話から、いつのまにか、感覚的な話になってしまった。

理系に属する人間のなんと非理論的なことか。

(群馬県保険医協会歯科版掲載のための原稿)