そうだったのか語源㊱   —日本の地名 その1 北海道から—

そうだったのか語源㊱   —日本の地名 その1 北海道から—

 以前、語源⑬で国名の由来について触れたことがあった。

 灯台下暗しで、日本の地名についてもっと早くきちんと扱うべきだったと、今更ながら思う。日本人として、自国の地名の由来くらい知っていて損はなかろう。

 まずは北の北海道から。

 都道府県で、北海道だけ都でも府でも県でもなくなぜ「道」なのか。

 「道」とは、律令国家の地方行政の基本区分だったそうである。中国のそれに倣い、日本では7世紀後半に成立した。

 当時の都、つまり京都に近い山城、大和、河内、和泉、摂津を畿内(きない)五カ国とし、それ以外を東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道の七道に分けた。これを五畿七道と言った。この「道」は、道=みち以外に、それを含む周辺の広域な地域をも意味していた。ただしこの当時、この「道」の中に北海道は含まれていない。

 明治2年(西暦1869年)太政官布告前、北海道は蝦夷が島(えぞがしま)、あるいは蝦夷地(えぞち)と呼ばれていた。「蝦夷」とは華夷(かい)思想に基づく異民族をさす。華夷思想とは中華思想と同意で、中国(=華)が世界の中心で、それ以外を文化の低い夷狄(いてき)とする思想である。

 それまで北の国境の意識は薄かったが、当時ロシアの進出を意識し、明治政府より新名称をつけるべきとの意見が上がった。新名称候補として、日高見(ひたかみ)・北加伊(ほっかい)・海北・海島・東北・千島が上がった。

 そのうち、北加伊の「加伊」を「海」と変更し、七道で馴染みのあった「道」をつけ、北海道としたそうである。ちなみに「加伊(カイ)」は、アイヌの古い言葉で「この地に生まれた人」という意味があるという。

 さて、北海道には常用の音訓読みでは読みにくい地名が多いが、これは北海道の市町村名の約8割がアイヌ語由来のためである。漢字で表記されているものが多いが、これは全くの当て字で、読みは元のアイヌ語に似せているものの漢字自体の意味はない。

 よく知られている地名を挙げてみる。

 札幌は、アイヌ語の「サッ・ポロ・ペッ=乾いた大きな川」から。小樽は、「オタ・オル・ナイ=砂浜の中を流れる川」、苫小牧は、「ト・マク・オマ・ナイ=沼の奥にある川」、室蘭は、「モ・ルエラニ=小さな下り坂のあるところ」、稚内は「ヤム・ワッカ・ナイ=冷水のある沢」、そして知床は「シレトク、またはシレトコ=地の果て」といった具合だ。

 大雑把に言って、「別」「幌」「内」がつくとアイヌ語で川や沢を、「平」は崖を指すようである。

 函館について。

 室町時代に、津軽の豪族が函館山の北斜面の宇須岸「ウスケシ=『入江の端』『湾内の端』を意味する『ウスケシ』・『ウショロケシ』」に館を築き、その形が箱に似ていることから「函館」と呼ばれるようになったとの説がある。他に、アイヌ語の「ハクチャシ=浅い、砦」に由来するとの説もある。

 帯広は、アイヌ語の「オペレペレケプ=川尻がいくつにも裂けているところ」がなまって「オベリベリ」、それが帯広になったと考えられている。

 ちょっといわくのある地名に旭川がある。道内札幌に次ぐ人口第二の大都市である。市内を流れる川をアイヌが「チュプペッ」と呼んでいた。これには「忠別」の漢字を当てた(現在も忠別川と呼ばれている)が、意味は「太陽の川」で、意訳すると「日が昇る川」、そしてこの意味を尊重して「旭川」と命名した(1890年)。アイヌ語に由来する北海道の地名としては、漢字が表意である稀なる例である。一方この「ペッ」が川を意味しているので、忠別川は川を意味する字が重複していることになる。

 もっとも、利根川を「Tonegawa River」と英訳するのであるから、間違いとは言えまい。

 テレビドラマ「北の家族」で脚光をあびるようになった、美しい風景で有名な富良野。

 名前の由来は、アイヌ語の「フラヌイ=臭・もつ・所」が転訛したとする説が有力。市を流れる富良野川が硫黄の臭気を含むことによると言われている。

 日本では珍しいカタカナで表記されるニセコ。

 町を流れる尻別川の支流であるニセコアンベツ川のアイヌ語名「ニセイコアンペッ=絶壁・に向って(峡谷)・いる・川」の前の部分をとったものとされている。

 では、なぜ他の地名のように漢字の当て字で表記せず、カタカナで表記されているのか。

 明治以降、アイヌ語の漢字化が行われたが、ニセコについてはサロマ湖等と同様、漢字を当てても定着せず、カタカナのままの表記が定着したとされている。

 釧路もアイヌ語由来ではあるが、諸説紛々あるため、ここでは割愛させていただく。

 さらに、北海道の北にある樺太(からふと=サハリン)は、アイヌ語で「カムイ・カラ・プト・ヤ・モシリ=神が河口に造った島」に由来し、そこから「カラプト」そして「からふと」になったとされている。

 樺太の東に広がるオホーツク海。この「オホーツク」はロシア語で「狩猟」を意味し、ロシアのハバロフスク地方にある人口約3000人の小さな町の名に由来する。

 返還問題が長年続く北方四島だが、これらの呼び名もアイヌ語に由来している。

 歯舞は「ハ・アプ・オマ・イ=流氷が退くと小島がそこにある所」、色丹は「シ・コタン=大きな村」、択捉は「エトゥ・ヲロ・プ=岬のある所」、そして国後は「クンネ・シリ=黒い島→黒い島、あるいはキナ・シリ=草の島」とされている。

 最後の国後の当て字は、まさに言い得て妙である。

そうだったのか語源㉟  -文法用語-

 私たちは、中学生の頃から国語や英語の文法を勉強し始める。いやこれは過去形で、今はもっと前倒しになっているのかもしれない。しかしだからといって、現代の子供たちが日本語や英語により造詣が深くなったという感覚は残念ながらあまりない。

 さて文法、つまり文章の規則を授業で聞かされ、それは当然そういうものだという既成概念として学習してきた。文法に使われる用語の意味、なぜそう呼ぶのかなどと考えていたら授業としては進まない。ノルマとは残酷なものだと思う。

 そして、授業というものから解放された年齢になり、改めて用語の意味を再考してみるのは、無責任でもあるがなかなか興味深い。これが当事者意識のない自由というものだろうか(笑)。

 ではそもそも文法とは。

 ある辞書には、

 「言語を文・語などの単位に分けて考えたとき,そこに見られる規則的な事実。文法的事実。そしてその事実を体系化した理論。」

とある。

 要するに、文や語に関する法則と考えてよかろう。

 その法則を体系化するために、用語を命名、分類したものを品詞と捉えることができる。

 まず初等レベルで、主語と述語。

 主語は、「何が」「誰が」を示すもので、主体に当たることからわかりやすい。

 述語とは、主語の行動や状態を表現する言葉である。「述」は訓読みで「のべる」で、主語の動作や状態を述べるという理解で問題なさそうである。

 日本語では、述語には動詞、形容詞、そして形容動詞等が使われる。

 一方、英語ではこの述語に当たるものは必ず動詞で、動詞はさらに一般動詞とbe動詞に分けられる。前者は動作を、後者は状態を表す。日本語の感覚からすると、状態を表すものも動詞というのが面白い。

 「It is beautiful.」というように、状態をbe動詞で形容している。

 次に、日本語の大きな特徴に助詞という品詞がある。

  ある辞書には助詞について、

「付属語のうち、活用のないもの。 常に、自立語または自立語に付属語の付いたものに付属し(文法的に重複のように思えるが)、その語句と他の語句との関係を示したり、陳述に一定の意味を加えたりする。」とある。

 この助詞は文法的には実に秀逸で、これがあるおかげで、主語や述語の位置を変えても意味が通じるのだ。

 「私は学校に行きます」を「行きます、私学校に」と言っても日本人ならばおそらく通じるが、「I go to school.」を「go I school to.」では英語圏ではまず???であろう。言葉の理解を助ける、まさに助詞なのである。日本人は全く意識なく使っているが、まさに文章の助っ人である。

 さて、最近では小学生のうちから英語を学ぶようである。日本語もろくに使いこなせないうちから外国語を学ぶことには賛否両論あろう。

 それはさておき、英語を理解するための日本語の文法用語に、意味不明な用語がある。

 まずは「分詞」について。

 現在分詞や過去分詞などがあり、動詞が形容詞や副詞としての用法を併せ持つとされ、つまり動詞でありながら状態を表すということである。

 ところで分詞という言葉だが、何が「分かれた言葉」なのだろうか。

 実は、分詞は英語ではparticipleというが、これはラテン語で「共有」や「参加」を意味する「particeps」が語源となっている。英語のparticipate(=参加する、共有する)と同源であろう。あること(物)に参加することで共有が生まれることから、これ自体は理解しやすい。

 であるなら、分けるという意味を連想しやすい「分詞」より、「合詞」や「共詞」「併詞」「多用詞」等と命名したほうが、日本語として本来のparticipleの意味に近いような気がするがいかがだろうか。

 次に、よくわからない品詞に「不定詞」というのがある。

 ある辞書には、

「不定詞とは1人称単数、3人称複数など主語の人称や単数、複数などに限定されることなく、動詞に他の品詞(名詞・形容詞・副詞)の働きをさせる準動詞のことを指す」とある。中学生のレベルでは、理解しにくい説明ではないだろうか。

 不定詞とは一般的に「to+動詞の原形」のことを指し、学校では「to不定詞」と習った記憶がある。そしてこの不定詞には、名詞的用法、形容詞的用法、副詞的用法の3つの用法があり、「主語、目的語、修飾語など、さまざまな役割を果たす」とある。

 英語のinfinitiveが語源であり、形容詞のinfinite=無限の、無数の、限りないの意から派生していると考えられる。つまり、用法が色々あり、一つには定まらないから「不定」という形容詞を当てたのであろうが、主な用法は大別してほぼ3つに分類されていることからすれば、「不定」というほど曖昧な品詞ではないように思われる。

 次に、「仮定法過去」という、これまた不可解な用語がある。

 仮定法については、

「事実ではない主観的な想像や仮定の話をする際に用いる表現」と説明されているが、これは理解できる。

 仮定法過去とは、現在の事実に反する仮想で過去形で表し、仮定法過去完了とは、過去の事実に反する仮想で過去完了形で表す、となっている。

 問題は、なぜ現在の仮想を過去形で、そして過去の仮想を過去完了形で表現するのか、ということと、その呼称である。

 仮定法過去についていえば、「現在の事実の反する仮想」を表現するために、現在から距離を置いた世界、つまり過去という時制(時間軸の前後関係)にずらす手法をとる、と説明されている。わかったようなわからないような—。

 もっとシンプルに、「現在の事実に反する仮想」だから、タイムマシーンで過去に戻れたら現在の事実とは異なっていたかもしれないと、理屈をつければわからなくもない。

 ただ呼称、つまり命名の仕方については、私自身今でも納得していない。

 フランス語やイタリア語と違い、日本語は英語やドイツ語と同様で、名詞の前に形容詞が位置するのが普通である。

 例えば、アルプスのモンブランはMont Blanc(仏)、Monte Bianco(伊)で形容詞は後ろにつくが、英語ではwhite mountain 、日本語では「白い山」と前に着く。

 だから、「仮定法過去」といった場合、「過去」という名詞を「仮定法」が形容する形になってしまう。つまり、本質は「過去」ということになるが、現実には「過去」ではなく「現在の仮想」である。

 ならば、呼称としては例えば「過去的仮定法」あるいは「過去型仮定法」とすべきではないだろうか。

 皆さんから意見も是非伺いたい。

そうだったのか語源㉞  -音楽用語 その他-

さて、これまでにピックアップし忘れたものを思い当たる限りオムニバス的に。

 ちなみにomnibusのomni-には、全- 総- 汎-といった漢字が当てられている。そこから「乗り合いバス(自動車)」と和訳されている。ここでは、落ち穂拾いよろしく、取りこぼしたものの「寄せ集め」といった意味で使うこととする。

 まず、コンサート等で使われるステージ。

 ステージ(stage)とは、(俗)ラテン語の「staticum」という単語が語源で、「立つ空間」の意味になる。これは英語のstand、あるいはstance=スタンス(立場、姿勢、立ち位置)の語源でもある。

 現在、英単語として「stage」と言った場合は、「足を付ける場所」「舞台」「位置」「段階」「時期」「演劇」などの意味を持つ。

 次に、唐突だが「フラメンコ」について。

 flamenco=フラメンコはご存知の通り、スペイン南部アンダルシア地方を中心とした伝統的な舞踊である。

 この語源には諸説あるが、最も信憑性の高い説をご紹介しよう。

 このflamencoというスペイン語は、英語で「炎症」を意味するinflammationと関係があるとされる。すなわち、この-flame-と英語で「炎」を意味するflame が同源ということである。炎症は燃えるようにジンジンと熱を持ち、一方フラメンコは心が燃えさかるような情熱的な舞踊だからこの名がついたとされる。

 ちなみに、鳥のflamingo=フラミンゴもラテン語で「炎」を意味するflammaから名づけられたとされている。おそらく鳥の羽の色から連想されたものであろう。現在、和名では「ベニヅル」とされているが、明治時代にはより原語に近く、「火鶴」や「火烈鳥」等の漢字が当てられていた。それまでの日本のツルの清楚なイメージからすると、かなり強烈だったのであろう。

 さて、音の速さのことをtempo=テンポという。これはイタリア語だが、英語のtimeに相当し、広義で時間のことを指す。

 一方、解剖学の分野では側頭骨(頬から耳の前にかけての部分)のことをラテン語ではos temporaleという。このtemporaleには側頭あるいは側(横)-といった意味は全くない。

 ラテン語のtemporaは「こめかみ」を指すが、これは同じくラテン語で「時」を意味するtempusに由来する。先ほどのtempoもここに語源がある。

 ではなぜ、「こめかみ」と「時」が関係するのか。

 諸説のうち説得力があるのは、こめかみの毛、つまり鬢(びん)が歳を重ねるにつれ最も早く白髪になり、人生の「時の流れ」を感じさせるから、というものである。メガネフレームの側頭部に触れるつるの部分も同義でtemple=テンプルという。    

 ちなみに、tempusには「切る」を意味するtem-に由来しているという説がある。つまり、「時の区切り」を意味し、獣肉を食べない「四句節」のtempora=時節に食した魚料理が天ぷらの語源となったというものである(これも諸説あり)。

 その意味では、tempusを「時節」と和訳すれば、さもありなんと腑に落ちるのではなかろうか。    

 話題はまた変わるが、オペラは一般的には「歌劇」と和訳される。

 ところがワグナーの作品の場合、オペラに分類されるものを楽劇と呼ぶ。

 Musikdrama(独)の和訳だが、アリアに重きを置いたそれまでのオペラに対し、ワグナーは音楽と劇の進行をより一体化、融合させたものを創作し、自らこの名をつけたとされている。

 とはいえ、ワグナーの初期の作品は、内容的には従来のオペラ=歌劇のスタイルを踏襲している。厳密には、後期に作られた「トリスタンとイゾルデ」「ニュルンベルクのマイスタージンガー」「ニーベルングの指環」「パルジファル」の4作が楽劇のジャンルに属するとされている。詳しくは定かでないものの、誤解を恐れずにいえば、現在のミュージカルに近いものといえないだろうか。    

 音楽の演奏会で使われる「公演」とは、「公開の席で、芝居、舞踊、音楽などを演ずること」とされている。  

 フランス語では、昼公演(日中の公演)をMatinée=マチネと言い、原語の意味は、「朝」「午前中」「正午前」。これに対し夜の部をSoirée=ソワレと言い、日没から就寝までの「夜の時間帯」を指す。

 オペラ観賞に使われるオペラグラスという双眼鏡がある。

 オペラハウスで観劇用に使われたのが、その名の由来。

 では、いわゆる双眼鏡との違いはというと、まずは小さくて軽いということ。     

 これは、その目的が観劇用なので、使っていても周囲の観客に迷惑がかからないことと、長時間保持しても疲れないことが重要である。そのため構造はシンプルで、2枚の凸レンズのみで構成されている。一方の双眼鏡は筒の中にプリズムが使われ、さらに凸レンズと凹レンズの組み合わせにより倍率を上げ、より遠くの物を鮮明に見ることが出来る。ただしその分、大きくて重い。

 次に、「こけら落し」とは、新築、あるいは改築された新たな劇場で初めて行われる催しを指す。

 元々の意味は、建築工事の最後に、屋根に残った木屑等を払い落とすことだった。

 「こけら」には、「杮」「𣏕」「木屑」「鱗」等の字が当てられている。

 前者3つが、材木をおのや鉋(かんな)等で削った時にできる削り屑や木片を指す。ちなみに、「杮」は果物の「柿」に似ているが、後者の旁(つくり)は市町村の「市」だが、前者のそれは縦棒が一本でつながっている。残りの「鱗」はこれらとは別で、魚などのうろこを指す。が、鱗も木屑に似ていないとはいえないので、ひょっとすると同源なのかもしれない。

 ちなみに、歯科で歯石を除去することをscaling=スケーリングというが、元々は魚のscale=鱗を取り除くことを指していた。表面に付着した物を取り除く行為が似ているからであろう。

 閑話休題。

 工事で出た木屑等を片付けてきれいにする事と、きれいになった劇場での初公演を同一視してできた言葉ではないだろうか。 あるいは、「こけら落し後の初公演」を略して「こけら落し」としたのかもしれない。

 次に、楽屋とはいかに。

 一般的には、舞台の出演者が支度をしたり休息をとる控室を指す。しかし本来は、それだけでなく舞台裏、つまり衣装係や大道具、小道具係等のいる場所全体を指していた。

  では楽屋の「楽」とは。

 実は、舞(まい)を伴う雅楽である「舞楽」が由来とされている。雅楽は、奈良時代に朝鮮や中国から伝わった音楽や舞、あるいはそれを日本でアレンジしたものを指す。ちなみに、舞を伴わないものを管楽と言う。

 舞楽の演奏者を楽人と言うが、この楽人が演奏をする舞台後ろの幕の内側を「楽之屋(がくのや)」と呼んでいた。これが楽屋の語源とされている。

 その後、能が登場したが、能ではこの楽人に当たる演奏者を囃子方(はやしかた)と呼ぶ。囃子方はそれまでの楽屋ではなく、舞台上で演奏するようになり、次第に楽屋は演奏する場所ではなく、現在のように出演者の準備や休息をする場所を指すようになった。

 さて、弁当でも使われる「幕の内」とは。

 文字通り、芝居等での幕の内側、あるいは幕が閉まっている間=幕間(まくあい)をさす。ちなみに相撲界でいう幕の内力士とは前頭以上の力士、つまり、横綱、そして三役(大関、関脇、小結)、前頭までを指す。これは、幔幕(まんまく=土俵を囲むように、天井から張り巡らされる幕)の中に座を与えられたところからそう呼ばれているが、今回取り上げる「幕の内」とは直接の関係はないようである。

 では幕の内弁当について。

 まず舞台関係から生じた説としては、芝居で、役者や裏方に出していた(つまり幕の内)弁当を観客も食べるようになったから(場所に由来)、というもの。あるいは、役者が舞台裏=幕の内で食べる弁当だったから(人に由来)、という説もある。

 別説としては、戦国時代、戦陣の幕の内で食べた弁当だから、というものがあるが、真偽のほどはいかに。  

 クラシックで、suiteは組曲と和訳される。

 発音記号では[swiːt](スイート)あるいは[suːt](スーツ)となっている。

 ちなみに、甘いものを指すsweet[swiːt](スイート)とは発音は同じでも全くの別物である。

 ホテルなどの一続きの部屋を意味するスイートルームなどと同源で、今の日本語では、「セット」という言葉が本来の意味に近いかもしれない。

「全部で1セット」なので、家具や食器では馴染み深い。

 服のスーツ=suitも同源で、同一の布でつくられる、二つ以上のピースからなる上下一揃(ひとそろ)いの服を言う。

 それでは文字通り、最後に「フィナーレ」に触れておこう。

 「フィナーレを飾る」などという。

 これはイタリア語で「最後」を意味するfinale=フィナーレから。

 音楽では、「終楽章」「終曲」と和訳される。

 フランス映画では、おしまいにfinの文字が出る。英語のthe endの意味で「終わり」を意味するが、finaleと同源である。

 イタリア語のfinaleには「決勝」の意味もあり、英語のfinal=ファイナル「最後の」と同源であることが理解できる。

 触れず仕舞いのものも少なからずあるような心残りもあるが、とりあえずここまでとしたい。

そうだったのか語源㉛  -音楽用語 その1-

 特に音楽に造詣が深いわけではない。でも、とにかくクラシックが好きだ。

 拙宅のオーディオ(かつてはステレオと言った)は、特に凝ったものではない。25年ほど前に購入したLuxman L-580というプリメインアンプを、数回オーバホールしながら現在も現役で使っている。オーディオに関心のない方にはどうでもいい話である。

 ちなみにaudio=オーディオは、audience=聞き手、聴衆と同源である。

 AUDIという自動車メーカーがあるが、これもaudioと同源である。

 創設者のアウグスト・ホルヒは、社名をつける際、自分の名前であるホルヒ=Horch(ドイツ語で「聞く」の意)の同義のラテン語、Audiを使ったとされている。

 ところで、普段何気なく聞いたり使ったりしている音楽用語にも、興味深い言葉があるので、触れてみたい。

 Music=ミュージックの語源は、音楽、舞踏など芸能の神、Mousa=ムーサから。ムーサがつかさどる技芸をmousicae=ムーシケーと呼び、ここからラテン語のmusica=ムジカが派生し、ミュージックの語源となった。

 次に、「歌」は英語ではsong=ソング。

 フランス語ではchanson=シャンソン、イタリア語でcanzone=カンツォーネ、スペイン語でcansion=カンシオンとなる。

 これらは、ラテン語で「歌う」「賛美する」を意味するcanto=カントに由来するとされている。

 ちなみに、オペラや独唱で使われるベルカント唱法も、イタリア語の Bel Cantoつまり「美しい歌(歌唱)」の意味から。

 これらには共通して「はねる音」、つまり撥音(はつおん)が含まれており、語源の同一性が感じられる。

 ところで、日本語では、「うた」に「歌」「唱」「唄」「譜」「詩」「詠」「吟」等の漢字が当てられている(実際にはまだある)。

「歌」は最も広義に使われている。

「唱」は、声をあげて歌う(となえる)。

「唄」は、ことばに旋律やリズムをつけて声に出すものやその言葉を指す。

「譜」は、音楽の曲節を符号で表したもの、楽譜。

「詩」は、「唄」とほぼ同意だが、より言葉に重きを置いていると考えられる。

「詠」は、詩歌を作ること、あるいは作った詩歌。声を長く引き、節をつけて詩歌を歌う事。

「吟」は、声に出して詩や歌を歌うこと、作ること。 

 以上、かなり細かい。

 さて、クラシック音楽とはいかに。

 Wikipediaによれば、クラシック音楽(Classical Music)」という用語は19世紀までは使われていなかったらしい。その頃、J.S.バッハやベートーベンの時代の音楽を復活させようという試みがなされ、他の音楽と区別し、「古典的」を意味するクラシック(classical)という言葉が使われたそうである。ちなみに、

初めてオックスフォード英語辞典で「クラシック音楽」というものが扱われたのは1836年のことだとか。

 しかしそうだとすると、「クラシックの現代曲」というジャンル名は、その名称自体が内部矛盾している。

 そこで、こう考えてはいかがだろうか。

 クラシック音楽は、宗教音楽や声楽、器楽曲や室内楽、交響曲etc.と、いろんな様式に分類されている。そういったクラシック音楽の様式の流れをくんだ現代曲と考えれば、腑に落ちなくもない。

 他方、オックスフォード英語辞典でclassic やclassicalを引いても、class=分類、種類との関連性は見つからないものの、主観的にはまんざら無関係とは思われないのである。

 つまり、器楽曲や室内楽曲、交響曲のようにclassified=きちんと分類された音楽という意味からclassical musicになったという解釈もできるような気がするが、諸賢の見解ははいかに。

 次に、バロック音楽とは16世紀末から18世紀中頃までのヨーロッパ音楽を指す。個人的に好きなトマス・タリス、ウィリアム・バード等に代表されるルネサンス音楽と、ハイドン、モーツァルト、ベートーベンといった古典派音楽の間に位置する。バッハ、ヘンデル、テレマン、ヴィヴァルディ、パーセル等がその代表とされる。この時代に、近代的な和声法や長調、短調の体系、そして通奏低音を基本とした作曲技法が確立された。

 baroque(仏) =バロックとは、元々はポルトガル語やスペイン語のbarroco(バローコ)=ゆがんだ真珠から派生した言葉だとか。

 フランス語では、「奇妙な」「風変りな」といった意味のようである。

 現在では、荘厳で宗教的なイメージのバロック音楽が、当時は異端に感じられたというのは、なかなか興味深い。

 日本でいえば、仏教が全盛の時代にキリスト教が入ってきたような感じだろうか。

 次に、西洋音楽における歌手の声域区分について。

 まずsoprano=ソプラノ(伊)は、ラテン語の「最も高い、はなはだ上の、最も外の」という意味のsupremusから。英語のsupreme やsuperと同源である。

 alto=アルトの語源はラテン語のaltus(高い)から。

 中世の多声楽曲で、alto は基本となる声部tenore =テノールよりも高い男声の声部を指していたが、いつの間にか女声の低音域へと変化していった。

 ではそのテノールとは。

 ラテン語で「保つ」「維持する」を意味するtenere=テネレから派生して、テノールと呼ばれるようになったと言われている。

 英語のsustainable(持続可能) の動詞sustain(状態を持続させる)や、maintenance(整備)の動詞maintain(状態を維持する)などの言葉の-tainは「〜を保つ」の意味をもった接尾語で、これもテノールと同じ語源の言葉である。

 何を「保つ」のかというと、「主旋律を保つ」ことで、元々グレゴリオ聖歌の長く延ばして歌う部分を指し、その声部を担当していたからと言われている。

 baritone=バリトンは、ギリシア語の「低い音の」の意のbarytonosが語源である。初め(16世紀)はbass=バスと同義に用いられ,最も低い声部を指していたが、のちにバスと区別された。

 ちなみに英語では、スペルはbassで「ベイス」と発音する。 おそらくbase=ベース(基底、底)と同源かと思われる。

 ここまでで、かなりの誌面を費やしてしまった。

 さて話を進め、まずは馴染みの交響曲から。

 symphony=交響曲は、symとphonyから成っている。

 symはsympathy=同情、共鳴、同感のsym、phonyはphone=

音、音声の同源、つまり「交響」とは実に上手な直訳なのである。

 ちょっと難解なのが、concerto=コンチェルト(協奏曲)。

 「独奏楽器あるいは独奏楽器群とオーケストラ(管弦楽)のための楽曲」と定義されている。

 最後が-oなので、イタリア語の男性名詞だということは想像に難くない。

 が、そのイタリア語では音楽会=コンチェルト 、そして協奏曲も同じくコンチェルトと発音される 。

 ラテン語のconcertare=コンチェルターレ(音を合わせる)に由来している。つまり、コンサートと協奏曲は同源ということである。

 con-は「共に」「協-」、certoは「認識」や「決定」の意がある。

 英語のcertein=確認する、確信する と同源と思われる。

 英語では、ピアノ協奏曲はpiano concertoとイタリア語に近い表記となる。

 concertoには、「論争する、競争する」という意味もあるが、一方で「協調する」という意味もある。「独奏楽器(群)とオーケストラとのかけ合い」というのが元の意味であろう。では、音楽会のコンサートは?となるが、なかなか明快な解答が見つからない。音楽会で協奏曲がよく演奏されたため、音楽会の代名詞となったのではなかろうか。

 divertimento=ディベルティメントは、喜(嬉)遊曲と和訳されている。

 concertoと同様、英語でもイタリア語と同じスペルで、母音で終わっている。

 英語のdiversion=気晴らし、娯楽と同義で、「喜遊」の字を当てたものと考えられる。器楽組曲で、明るく軽妙で、深刻さを避けた楽曲を指す。ちなみに、医学用語でdiverticulumは憩室(消化管の一部にできた袋状の陥入)と和訳されているが、これも同源であろう。(消化管の)流れから小さな路地のように引っ込み、ほっとできるような(流れから外れた)部分という意味合いからではないだろうか。

 似たものでserenade=セレナードがあるが、こちらは小夜曲と和訳されている。前者が室内演奏用であるのに対し後者は屋外演奏用とされている。

 セレナードはもともと、男性が夜、女性のいる窓辺に向かって女性を口説くための曲であった。serenadeはラテン語のserenus=平穏な、が語源とされている。世の中が平穏でないと、こんな口説き方はできないからだろうか。

 そのうち、夜に野外で演奏される曲全般を指すようになった。

 モーツァルトのEine Kleine Nachtmusik=アイネ・クライネ・ナハトムジークK.525は、小夜曲をそのままドイツ語にしたもので、モーツァルト自身が目録に書き加えたとされている。

 nocturne=ノクターンは、夜想曲と和訳されている。夜の情緒をテーマにした叙情的な曲のジャンル。語源はラテン語のnox=ノクス(夜)から、その複数形が「ノクティス」これが英語化したものである。因みにフランス語では「ノクチュルヌ」と発音する。

 さて、ballade=バラードは譚詩曲と和訳され、その名の通り世俗の叙情歌で、詩的な側面もある。

 面白いところでは、capriccio=カプリッチョ。和訳では奇想曲。

 Wikipediaでは「形式が一定せず自由な機知に富む曲想」と解説されている。かなりアバウトな定義である。

 英語、仏語ではcaprice=カプリースと発音され、「気まぐれな」と和訳されている。 以前、イタリア人の患者に、カプリッチョとはどんな意味か尋ねてみた。彼が挙げた例として、「家に帰ってみたら子供が室内を散らかし放題にしていて驚いた、そんな感じ」と、説明してくれた。下手な英語で、「beyond expecting?」と聞き返したら「so!」と言ってくれた。現代語では「うそっ!」と言った感じだろうか。カプリッチョとは、そこまで極端ではないにしろ、「何があっても構わない曲」といったところではないだろうか。

そうだったのか語源㉚ -美しい日本語 その他-

美しい日本語が続くが、今回は徒然なるままに思い当たる言葉として、まずは「面影」について。

 「面」は表(おもて)で、そのままの見える顔そのものを指し、一方「影」は光の当たらない暗い部分を指す。つまり、なにか実物とは違う間接的な像、つまりそこに想像力の入り込む余地があるように思われる。これが転じて、「目の前にあるものから思い出される様子」や「記憶の中にある顔かたち」を意味するようになったと考えられる。深い言葉である。

 ちなみに、英語ではone’s face(顔について)image traceなどがその訳として当てられているが、これらの単語の中に、日本語の「面影」のような微妙な意味合いが含まれているように感じ取れないのは、私が単に英語に造詣がないためだろうか。

 日本語的に美しい言葉に「ひとしお」がある。

 もともとの状態に比べ、さらに程度が増すことを表す言葉である。

 漢字では「一入」と書くが、これは染物を一度染料に浸すことが語源とされている。染料に浸すたびに色が濃く鮮やかになっていくことから「一入」で、二回浸すことを「再入(ふたしお)」、さらに何度も浸すことを「八入(やすお)」と言うそうである。

 次は、日本語の真髄のような言葉、「ゆかしい」について。

 「ゆかし」という古語は「行かし」から来ており、「行かし」とは「そこに行ってみたい、知りたい」が本意で、心がそこに惹かれる様を表現している。現代では「奥ゆかしい」という使われ方がほとんどだが、その通り「奥まで行ってみたい、奥義まで知りたい」という意味である。全てをさらけ出しては、さらに知る由もなく興味が止まってしまう。一部分しか見せない、知らせないがためにそこに想像力が働く余地がある、これは日本画にも通じる余白の世界で、日本人ならではの感性ではないだろうか。

 西洋画は背景を含め、全て彩色する。音楽も、音符が表現するものが全てである(もちろん、解釈によって異なる部分もあるが)。それが全て、眼前の視覚、聴覚等、五感に訴えるものが全てであり、人間が感覚的に捉えたものが絶対的な真実であるという、ルネッサンス期の西洋文化の真髄たるものが凛として存在する。絶対的な真実を探求する知的好奇心がルネッサンス文化を作ったと言っても、あながち的外れではあるまい。  

 それに比べると、日本の文化はやはり根本的に違うように思える。

 以前にも触れたが、左右非対称の美、未完成の美、つまり変化、発展する余地を残した美が日本文化にはあるような気がする。余白を残し、墨の濃淡のみで情景を表現する水墨画や回遊式庭園、建築では桂離宮の美しさはまさにこの代表と言えまいか。

 次に「さりげない」という言葉について。これも、先の「ゆかし」と通じる、日本人の感性を象徴するような言葉である。

 「さりげ」は本来は「然りげ」と書き、「さ」と「ありげ」から転じた言葉で、「そのようでありそうな」「(いかにも)それらしい」という意味である。

 そこから「さりげない」は、意図を感じさせないように行う様子をいう。さらに、これといった目的を持たない、何気ない様子を表現することもある。

 最近では、意図はあるもののそれを感じさせない、あるいはそれを悟らさせない巧妙な仕草を指すようにも思える。

 さて、「よろしく」という言葉は日常的に実に多くの場面で使われ、意味も一筋縄ではいかない。これはもう、美しいというより難しい日本語の範疇に入るものであろう。この言葉は副詞だが、元となる形容詞の「よろしい」から。

 これは漢字では「宜しい」と書く。広義では「よい」だが、「結構だ」「好ましい」から、「許容できる(かまわない)」「ちょうどよい(適当だ)」「承知した」等、色々な使われ方をする。共通するのは、及第であるという概念だろうか。

 そこから派生した「よろしく」は、「適当に(うまく)」だが、人に何かを頼むときに添える言葉でもある。「◯◯さんによろしく」のように、相手に、別の人への好意をうまく伝えてもらう場合にも使われる。やや変わったところでは、上につく名詞に続けて、「いかにもそれらしく」の意味で使われることもある。

 最後の使い方以外は、「よろしい」から派生した言葉であることは理解できる。

 歌に出てくる言葉にも美しいものがある。

 「埴生の宿」の「埴生」とはこれいかに。

 「埴生」は、「埴(はに)」のある土地を指す。「埴」は「埴輪」からも想像できるように、土、あるいは粘土を指し、床も畳もなく土がむき出しになったいわば土間だけの状態で、そのような粗末な家を「埴生の宿」と表現した。「埴生の宿も我が宿、玉の装い羨(うらや)まじ」と続く。後半は、「豪華な装飾も決して羨ましくはない」という意味である。実はこの曲、イングランド民謡の「Home! Sweet Home!」(日本語訳:楽しき我が家)が原曲である。この歌詞は直訳ではなく意訳で、日本語としても美しい歌詞となっている。

「蛍の光」もスコットランド民謡「Auld Lang Syne」(スコットランド語)が原曲で、英訳では「times gone by」で、「過ぎ去りし懐かしき昔」などと和訳されている。「蛍の光」が別れの歌であるのに対し、「Auld Lang Syne」は旧友との再会を喜び、昔を懐かしむ歌詞となっている。

 さて、この「蛍の光」の歌詞は4番まであるが、一般的には2番までが歌われる。

 1番は、

「螢の光窓の雪、書(ふみ)讀む月日重ねつゝ、何時(いつ)しか年もすぎの戸を、開けてぞ今朝は、別れ行く」

 2番は、

「止まるも行くも限りとて、互(かたみ)に思ふ千萬(ちよろず)の、心の端を一言に、幸(さき)くと許(ばか)り、歌ふなり」

 1番でわかりにくいのは、「何時しか年もすぎの戸を」ではないだろうか。もっと絞れば「すぎ」の部分で、これは「いつしか年月も過ぎてしまった」と「杉の戸を開けて」の掛詞である。檜(ヒノキ)の戸では洒落にならないのである。

 2番では、「限りとて」は「今日限りである」の意、次の「互に思ふ千萬の心の端を」は「お互いを思う何千何万の気持ちを」、「幸くと許り」は「どうか無事でいてねとの思いで」となる。

 次に、「イロハニホヘト—」について。

 物事の順番を表すのに、「123—」(数詞)「abc—」(アルファベット順)、そして日本では「アイウエオ—」(50音順)「イロハニホヘト—」等がある。

 前の3つは順番として規則性を感じるが、「イロハニホヘト—」はやや異質ではないだろうか。イロハ順と言われている順番である。

 これは、平安時代末期に流行した「いろは歌」がもととなっている。「いろは歌」とは、七五を4回繰り返す歌謡形式に則り、さらに仮名一字を1回ずつ使うという制約の下で作られている。

 江戸時代までは、一般的にはイロハ順が使われていた(50音順は、主に学者らの間で使われていたそうである)。ちなみに現在では、公文書には50音順を使うことと定められている。

 イロハは音名(階名)にも当てはめられ、イタリア式表記の「Do Re Mi Fa Sol La Si」(ド レ ミ ファ ソラ シ)、英語式表記の「C D E F G A B」を日本では「ハニホヘトイロ」とした。ハ長調、ト短調といった具合に。

 さて、「イロハ—」の全文は、

「いろはにほへとちりぬるをわかよたれそつねならむうゐのおくやまけふこえてあさきゆめみしゑひもせすん」で、元歌は、

「いろはにほへど ちりぬるを わがよたれぞ つねならむ うゐのおくやま けふこえて あさきゆめみじ ゑひもせず」である。

 イロハ順は濁点を取っている。元歌を漢字を入れて表わすと、

「色は匂へど散りぬるを 我が世誰ぞ常ならむ 有為の奥山今日越えて 浅き夢見じ酔ひもせず」

 最後の「ん」は使われていない1文字を入れて、48文字とした。

 歌の意味は、

「色は匂へど散りぬるを」→「香り豊かで色鮮やかな花も、いずれは散ってしまう」

「我が世誰ぞ常ならむ」→「この世に生きる誰しもが、いつまでも変わらないことなぞない」

「有為の奥山今日越えて」→「無常で有為転変(=有為無常:常に変化しとどまるところを知らない)の迷い、その奥深い山を今乗り越えていく」

「浅き夢見じ酔ひもせず」→「悟りの世界に至ればはかない夢など見ることなく、仮想の世界に酔うこともない安らかな心境である」

となる。まるで平家物語の冒頭の「祇園精舎の鐘の声—」のようで、実に深い悟りの境地が込められている。「大乗仏教の悟りを表した歌」との解釈もある。 

 しかも、一語の重複もなく読まれていることに驚嘆するばかりで、ただ順番を表わすだけに使われるには、あまりにもったいない。 

そうだったのか語源㉙    -続々・美しい日本語-

 最近の日本列島は洪水や氾濫、鉄砲水等、水による被害が多くなっている。温暖化の象徴的な現象なのかもしれない。

 それでも、世界的にみれば水が比較的容易、安価に手に入る日本において、その源である雨について。 

 この雨には実に様々な表現があり、ある辞書によると1200ほどあるとか。

 いくつか、目についた表現を取り上げてみたい。

 気象予報でもポピュラーな「にわか雨」は、急に降り出して短時間で止む雨のことをいう。     

 では似た表現で「通り雨」とは。さっと降ってすぐに止む雨と説明されているが、にわか雨との違いは降ったり止んだりを繰り返す、つまり断続的なものが「通り雨」となっている。ちなみに気象用語ではこの表現は使われず「時雨(しぐれ)」という。

 「にわか雨」「通り雨」とも、積乱雲から突然降り出す「驟雨(しゅうう)」という雨の範疇に入る。  

 「五月雨(さみだれ)」は、旧暦の5月に降る長雨、つまり現在の梅雨を指す。

 ついでに「さみだれ式」とは、この雨のように、途中で中断を挟みながらもだらだらと続く様子を言う。 

 「土砂降り」が、大粒の雨が激しく降る、いわゆる豪雨をさすことには異論はなかろう。あとは「土砂」だが、ひとつには土砂を跳ね飛ばすような勢いからという説と、擬態語の「ドサッ」と「降る」を組み合わせたもので、「土砂」は当て字とする説がある。

 雨と雪が混ざって降るものを「みぞれ」といい、漢字では「霙」と書く。雨冠は空から降るものを表し、旁の「英」は花や花びらを意味することから、花びらのように雨よりゆっくり降ってくる様を指しているものと考えられる。

 ちなみに、「氷雨(ひさめ)」とは冬季に降る冷たい雨を指すが、雹(ひょう)や霰(あられ)といった空から降る氷の粒を指すこともある。

 霧雨(きりさめ)は文字通り、霧のような細かい雨(厳密な気象用語では雨滴の直径が0.5mm未満)を指すが、別名小糠雨(こぬかあめ)とも呼ばれる。

 さて、「夕立」は夏の午後から夕方にかけて降る激しい雨を言う。

 もともとは、雨に限らず風や波、雲などが夕方に起こることを「夕立つ(ゆうだつ)」と言い、それが名詞化したという説が有力である。

 ところで、日が照っているのに急に降り出す雨のことを「天気雨」、あるいは「狐の嫁入り」、日照雨(ひでりあめ)と言う。

 この曰くありげな「狐の嫁入り」だが、一般的には、夜の山中や川原などで無数の狐火(冬から春先にかけての夜間,野原や山間に多く見られる奇怪な火)が一列に連なって提灯行列のように見えることをいい、狐が婚礼のために提灯を灯しているという伝説がある。昔は、夜に提灯行列などがあると、それは大抵が他の土地からやって来る嫁入りの行列だったいう。一方、近所で嫁入りなどがあると、誰でも事前にそのことを知っているので、予定にない提灯行列は、狐が嫁入りの真似をして人を化かしていると言われていたようである。

 つまり、予測なしに、あるいは予測できずに降ることがこの伝説にちなんだのか、あるいは晴れているのに雨が降るという、狐につままれた様を指すのか詳細は定かではないが、根拠として全くの見当外れではあるまい。

 梅雨(つゆ)も日本らしい言葉だが、起源はどうやら中国らしい。

 梅雨は、春から夏への季節の変わり目に停滞前線(梅雨前線)の影響で雨や曇りの日が続く気象現象を言う。中国の長江下流域で梅の実が熟す頃に降る雨が語源との説が有力である。

 日本ではこの他に、梅雨に似た長雨に三つ名前がついている。

 菜種梅雨(なたねづゆ)、すすき梅雨、山茶花梅雨(さざんかづゆ)と呼ばれている。

 順に、菜種梅雨は菜の花の咲く頃の長雨を指すが、いろんな花の咲く時期と重なるので催花雨(さいかう)とも呼ばれる。日本的な美しい命名である。

 次のすすき梅雨は比較的時期の幅があり、8月下旬から10月上旬までの長雨を指す。

 すすきの季節に降る長雨という意味だが、「秋の長雨」あるいは秋霖(しゅうりん)の別名もある。

 最後の山茶花梅雨は晩秋から初冬、つまり11月下旬から12月上旬に降る長雨を言う。名の通り、山茶花の花の咲く頃の長雨の意である。名前に「花」がつくものの、この長雨は気温も下がり日も短くなる頃に降る雨で、心なしかうら寂しい響きがある。

 これらはどれも、日本的季節感のにじむ呼び名である。 

 その他、感謝を込めた雨の呼び名もある。

 慈雨、あるいは「恵みの雨」は、万物を潤し育てる雨を言う。別に「甘露の雨」の表現もある。

 「干天の慈雨」とは、日照り続きの時に降るありがたい雨の意だが、転じて、困っている時に差し伸べられる救いの手の比喩としても使われる。

 個人的には今回のメインのテーマと思っている「別れの言葉」について。

 状況を問わず、最も頻用される別れの言葉は「さようなら」。

 「然様(さよう)」は「然様でございます=そのようです、そうです」のような表現にも使用されるので、前に起きた特別なことを表現するというよりは、前提として起きたことを含めてのクッション(言葉の印象を和らげる)言葉的な意味合いで使用されることが多いようである。

 ということで、別れの挨拶である「さようなら」つまり「然様なら」は、「用事が完了したので」や、「そろそろいい区切りなので」というような意味合いで使われ、より現代的な口語に言い換えるならば、「そろそろバイバイね~」「じゃーね」的なニュアンスになるのであろう。

 いずれにしても、元になる「なら」は仮定条件として使われる言葉である。

 「じゃー」の語源である「では」も同義である。

 その意味では、「では、さようなら」は、仮定条件が重複しているので、文法的には誤りと言えよう。

 さらに、より古い表現では「さらば」があるが、これも「さ、あらば(そうであるならば)」が語源で、やはり仮定条件からの派生である。

 これらの言葉から類推するに、日本語では単刀直入な表現は「はしたない」という文化があったようで、「別れる」「帰る」という本題をはっきり表現せず、仮定条件の言葉で婉曲に表現することを好んだのではなかろうか。このような文化は、良くも悪くも日本のディベートや政治においても色濃く残っているように思う。

 これら日本語の表現に共通するのは、刹那的というか、単にその時の別れの挨拶でしかない、ということである。

 ちなみに英語では[see you again]が一般的だが、[good by]も同様に使われる。

[good by]は[Godbwye]の略語、さらに元を辿れば[God by with you]が語源、つまり、「神が汝とともにありますように」あるいは「神のご加護を」の意で、いかにもキリスト教色の濃い言葉である。

 少なくとも、先の日本語には相手の将来を慮る意があるようには思えない。

 その思いやりの意を含む日本語としては、「お元気で」や古くは「お達者で」、あるいは手紙で常用される「ご自愛ください」が使われる。また、少々上品な言葉「ご機嫌よう」も別れの言葉で、「ご機嫌よくお過ごしください」を略した言葉である。

 さらに丁寧な言葉では「ご機嫌麗しゅう」がある。これもその後に、「お過ごしください」等が続いたのが略されたものだと思われる。別れや手紙の文末に使われ、意味としては「気分良くお過ごしください」といったところか。

 似たところでは、手紙の文頭や挨拶に使われる「ご機嫌いかがですか」は、現在でも常用される相手の健康を気遣った表現である。

 さらに同様な意味を含んだ挨拶の言葉としては、一般的な「お元気ですか」の他に、「お達者」「ご健勝」や「つつが無い」という表現が使われることがある。後者は「恙無い」と書き、病気、災難などがなく日々を送っている様を言う。

 もともと「恙」の意味は、「ダニ、病気、災難」で、「ツツガムシ」とはケダニを意味する。童謡「ふるさと」にも「つつが無しや友がき」というフレーズがあるが、要するに元気で平穏無事ですか?という意味である。同様に最近ではほとんど使われない言葉に「息災」がある。

 「息災なく」や「息災でしたか」「息災でなにより」といった使われ方をする。

 現在、日常的には「無病息災」という4文字熟語での使われ方が圧倒的に多い。

 「息災」の意味は、

 1.仏の力によって災害や病気などの災いを消滅させること

 2.身にさわりのないこと。達者。無事

となっている。

 もともとは、修行する人の煩悩を取り払う仏教用語が元となっている。

 ちなみに「息」には「やむ、しずめる」の意があり、意訳すれば「災いを鎮める」となる。

 「ご機嫌麗しゅう」で使われた「麗しい」という言葉について。

 一般的には、「美しい」という言葉がこの意味で使われている。

 辞書には、

 ① (外面的に)魅力的で美しい。気品があってきれいだ。

 ② (精神的に)心あたたまるような感じだ。

 ③ きげんがよい。晴れ晴れしている。

とある。この中で、③ だけが「美しい」に置き換えるのにやや抵抗がある。

 ただ一方で、「おいしい」に「美味しい」という漢字が当てられることがある。

 ここから察するに、女子の名前で「よしこ」の漢字に「好子」や「美子」が使われるように、「美しい」にも好ましい、あるいは好感が持てるという意味合いがあり、使われる機会は多くはないものの、③ もまんざら本来の使い方から外れてはいないように思える。

 要するに、「麗しい」は「美しい」に対し、やや格調高い、あるいは古風な言葉と言えるのかもしれない。

 美しい日本語は大事にしたいものである。

そうだったのか語源㉗ -美しい日本語 その1-

 日本人の耳にだけそう響くのだろうか、音(おん)として響きの美しい言葉を聞くとき、日本の文化を誇りに思い、その言葉の成り立ちに想いを馳せる。   

まずは、時の移ろいに関するものから触れてみたい。

テレビ番組のタイトルなどで、古都のことをわざわざ「いにしえの都」という。

 響きの綺麗な日本語だと思うが、「いにしえ」の語源は、「往 (い) にし方 (へ) 」から来ており、直訳すれば「行(往)ってしまった古い時代」ということになろうか。ちなみにこの言葉は「去(い)にしへ」とも書き、故人のことも指す。

 「とこしえ」は漢字では「永久」が当てられる。「常し方(へ)」あるいは「長し方(へ)」が語源と思われる。

 ちなみに「とわ」は「永久」「永遠」を当てるが、これは「常(とこ)」(接頭)=いつも変わらない、永遠である」の意を表す語から来ている。「とこしえ」の「え」は「いにしえ」同様、「え(あるいは(へ))(接尾語)」=「方」でその方向、向きの意を表す。「ゆくえ」「しりえ」「いにしえ」と同じ使い方である。つまり、「とこしえ」と「いにしえ」は過去と将来という意味で対(つい)である。

 「あけぼの」は、「明け」と「ぼの(ほの)」からできた言葉で、「仄々(ほのぼの)と明けていく」あるいは、「仄(ほの)かな明け」の意で、夜のしじまから東の空がほのかに明るくなっていく様を表している。日本の感性を感じる。

 一方で、これに似た言葉で「あかつき(暁)」という表現もある。これは、「あかとき(明時)」が変化した言葉で、夜が明ける時を指し、ほぼ同じ意味で使われる。

 日の出の「あけぼの」に対して、日の入りに近い表現で「たそがれ(黄昏)」がある。これは、夕焼けの赤みの残るモメントを指す言葉である。

 実は、古くは「たそかれ」と言われ、「誰 (た) そ彼 (かれ) は」、つまり「あの人は誰だろう?」と、日暮れて人の顔の見分けがつきにくい時間帯を指す。

転じて、人生の盛りを過ぎた頃を指すこともある。これもなかなか美しい日本語である。

 これに近い言葉で、「ひともし頃」という表現がある。「火点し(ひともし)」とは灯火をともすことを指し、つまり暗くなって人工的な照明がないと生活に支障をきたすような時間帯を指す。

 「訪れる」とはあまりに日常語で、特に語源など考えもしないかもしれない。

 えてして日常用語とはそんなものであろう。

 では、「訪れ」は「おとずれ」と読むが、これはどこから来たのだろうか。

 音は、音波というように空気の振動である。風が吹けば音が生じるが、こういった自然現象を古来の人たちは神の来訪と感じたようである。これを、音を連れて神が来訪するので、音連れ(おとづれ)と言った。これが「訪れ」の語源である。 

 人が来訪する時も衣服が擦れる、衣擦れや足音など「音連れ」なのである。

 さて、「うたかた」とは、はかなく消えやすいものといった意味である。

 漢字では「泡沫」が当てられている。これには多くの語源や由来がある。

 「ウクタマカタ(浮玉形)」の転、「ウキテエガタキモノ(浮きて得がたきもの)」の略、「ワガタ(輪型)」の「ワ」の延音「ウタ」、「ウツカタ(空形)」の転など、多くの説がある。

 水面に浮かぶ泡を指すが、「水の泡」という使われ方から、消えやすくはかないもののたとえとして用いられている。

 実は、漢字の「泡沫(ほうまつ)」は当て字である。

 ちなみに、このように漢字2文字以上をまとめて訓読みすることを、熟字訓(じゅくじくん)と呼ぶ。

 一般に「当て字」と呼ばれているものの中には、多くの熟字訓が含まれている。1946年に当用漢字が制定されたとき、「当て字はかな書きにする」という方針が打ち出され、その結果、熟字訓の語源の漢字はあまり用いられなくなった。一方で、もとの漢字には言葉本来の意味が表現されており、言葉の意味を理解するという面ではメリットも多いだが。

 閑話休題。

 「夢うつつ」、「うつつを抜かす」という言葉がある。

 これらの引用例から、「うつつ」とは夢を見ている状態、あるいは現代の言い方では、バーチャルな状態を表していると誤解を招くかもしれない。

 意外にも、「うつつ」には漢字の「現」が当てられている。

 つまり、(死んだ状態に対して)現実に生きている状態、現存を意味する。

 その他、気が確かな状態、意識の正常な状態、つまり正気を指す。

 「うつつ」の語源は,諸説あるらしいが、ウツシ(顕)の語幹のウツから派生したとの説もある。

 音が似ているところで、「うつせみ」という言葉がある。

 この世に生きている人、あるいは現世、この世といった意味で用いられる。

 現在では、雄略天皇(5世紀後半)条にある「ウツシオミ」という言葉が語源であるというのがほぼ通説となっている。この「ウツシオミ」とは、雄略天皇が人の姿で現れた葛城(かつらぎ)の一言主の大神に対し、「ウツシオミであるので神であると気付かなかった」と言ったもの。このウツシを「現」とすることは諸説一致しているが、オミの意味については「臣」の字を当てる説があるものの定説とはなっていない。

「空蝉」「虚蝉」は後世にできた当て字だが、地上に現れてからの寿命の短い蝉や蝉の抜け殻の意にも用いられ、虚しいものというニュアンスを持つようになった。時代の終末思想、末世思想が「うつせみ」に「空蝉」とあてさせたのだろうか、時代背景を感じさせる。

 その他、現身(うつしみ)とする説もある。

 さて、「そこはかと」は、「そこはかとなく」という否定語が続く形で多く使われる。

 元々は「其処 (そこ) は彼 (か) と」と書き、「どこそことはっきりとは」、あるいは「確かには」という意味である。

 次に「風=ふう」について。

 「ローマ」に対して「ロマンティック」という形容詞があり、「ローマ風の」あるいは「ロマン主義」「ロマン派」「ローマ様式の」「ローマに通じる」と和訳されているが、まさしくこれと同じ表現である。

 日常語として意識なく頻繁に使っている。現代語の「–っぽい」がこれに当たるのではないだろうか。

「風」は、「洋風」「現代風」というように、名詞や形容詞のあとに付けて方法や様子、様式、性格等を表現する。もともとは、気まぐれな風が吹くように、あまり堅いことに拘泥せず、言いたいことをストレートに言わず、オブラートに包むように、やや曖昧さをもたせて表現する場合に用いる。私説ではあるが、風が吹くように、どこかから影響を受けてそれになびくという意味合いもあるのではないかと思われる。いずれにしても実に和風な言語である。と言いながら、図らずも「風」を使ってしまうが、それだけ「風」が使いやすい便利な言葉なのであろう。

 「こうしてください」ではなく、「こういうふう(風)にしてください」と言うと、表現が柔らかくなる。「このように」「こんな感じ」「これみたいな」という表現に類似している。

 先に出た「洋風」も西洋そのものではなく、西洋の雰囲気、あるいは様式をもった、という意味で使われる。

「風情」「風格」「気っ風(きっぷ)」といった言葉にも、断定せず醸し出す雰囲気といった意味合いが感じ取れる。 

 事ほどさように、日本語には、「風」「光」「音」といったものが雰囲気の表現として使われる場合が多い。

 「風景」と同様に「光景」という言葉も用いられる。「風光明媚」や「観光」にも「光」は使われる。「光り輝く」景色だからか、あるいは「光があるからこそ見える」景色だからか、正確な根拠はわかりかねるが、そう外れてはいまい。

 一方「威光」や「後光」では、「光」はありがたさや威厳を表していると考えられる。

 さて日本語では、ある感覚器の表現を別の感覚として使うことがよくある。

 「暖色」という言葉は、視覚を温度感覚で表現、「明るい音」は聴覚を視覚で、「軽やかな響き」は聴覚を重量感覚で表現している。

 私の大好きなワインでは、その味わいの表現として、「重い」「軽い」という重量感覚で表現している。舌で重量が測定できるわけがないが、呑んべいの味覚としては非常にわかりやすい。  

 「苦い経験」「甘い生活」では、人生を味覚で表現している。これは日本語に限った表現ではないが、そのあたりの詳細はここでは割愛させていただく。  

 次に、先にも出たが「しじま」には「無言」「黙」「静寂」の字が当てられる。

 「しず」あるいは「しじ」(=静寂)と「ま(=時間)」からの成語という説がある。「静」と「間」がそれに当たろう。

 一方、しじま(黙)の語源には、口をシジメル(縮める)シジマル(縮まる)の意があるという説もある。そこから「静寂」の意が派生したとも言われている。ちなみに、しじま(黙)と貝の蜆(しじみ)は「縮む」が共通の語源とされている。

 「たおやか」とは、姿・形・動作がしなやかで優しいさまをさす。「たお」は「たわむ」から派生した言葉である。この語源は「硬いものが曲がった形になる」「弧を描く」という意味の「撓む(たわむ)」からきており、その意味から基本的に女性の所作や木の枝などに対して用いられる。

 「木漏れ日」も日本的な美しい表現で、その名の通り、木陰から漏れる陽の光を指す。個人的には、学生時代に過ごした仙台の青葉通りや定禅寺通りのけやき並木を歩いた時の光の移ろいを思い出す。青春の不安に満ちた精神状態と重なって思い出される。時々、無性に仙台に戻ってみたいという衝動にかられる。やや感傷が入ってしまったこと、ご容赦願いたい。

 演歌の歌詞によくある「移り香」。英語では、「a lingering (faint) fragrance [scent]」とある。物に移り残った香、残香、遺薫などと和訳される。香、香織、薫、馨等、名前にも多く使われている。源氏物語の「匂宮」「薫大将」も嗅覚に由来する。匂いで季節を感じるように、古来より、いかに日本人の嗅覚がその文化に根付いているかが想像できる。

 さて、「はしたない」とは、礼儀に外れていて品がない、あるいは上品ではないといった意味で使われる。「はした(半端)」と「なし」から構成された語で、「はした」は「はんぱ」とも読み、一定の数量やまとまりとなるには足りない数や部分を指す。「なし」は否定語の「無し」ではなく、前の言葉を強調する時に用いられる。「あどけない」「せわしない」などの「ない」も同様の使い方である。つまり「はしたなし」は、「中途半端な」を強調したのが原義である。

 「世知辛い」とは、世渡りが難しい、生きずらいといった意味で用いられる。

 この言葉は実は仏教語が語源となっている。

 「世知」とは、俗世間を生きるための智慧、つまり世渡り術を指す。「辛い」は「つらい」とも読み、英語のdifficultの同義で、生きにくい、生きずらいといった意味となる。

 では「如才ない」の如才とは。ちなみに本来は如在と書く。

 語源は、論語の「祭如在、祭神如神在(祭ることいますが如くし、神を祭ること神いますが如くす)」である。

 意味は、「先祖を祭るには先祖が目の前にいるかのように、神を祭るには神が目の前にいるかのように心を込めて祭られた」。

 これがいつしか、「形ばかりの敬意」「上辺(うわべ)の敬意」「形式的」といった意味に変化して使われるようになり、「如才」は「なおざりな様子」「手抜きをして気がきかない様子」を表すようなった。

 今日では「如才ない」と後ろに否定語をつけて使われることが多くなり、「抜かりがない」あるいは「気の利いた」と肯定的な表現として用いられる。

 「暮れ泥む」は「くれなずむ」と読む。

 「暮れなずむ」というのは、日が暮れそうでなかなか暮れないでいる状態、つまり日が暮れかかってから真っ暗になるまでの時間が長いことを表す。「暮れなずむ」を「(すでに)日が暮れた」という意味で使うのは本来の使い方ではない。いわば、先に触れた、「黄昏時」と同義語ととらえてよかろう。

そうだったのか語源㉖   -数に関する言葉-

 人の指の数が左右で計10本だったから10進法が発達したと言われている。

 仮に、合計12本だったらもっと文明は進歩したのではないかとも言われている。

 12進法というのがある。時刻や方位に使われる場合が多いが、たしかに円に関する場合、10より12のほうが使いやすい。円を10等分するのは結構難しいが、4等分、6等分は簡単で、つまりその倍数である12等分は比較的簡単である。しかも10の約数は1,2,5,10しかないが、12では1,2,3,4,6,12と多い。

 さて、漢字由来の数詞から派生した言葉には大袈裟な、あるいは比喩的に強調した表現が目立つ。

 「万一」あるいは「万が一」とは、「万に一つ程度のほんのわずかな可能性のあること」が直訳だが、日常的には「ひょっとしたら」「もしかしたら」くらいの意味に使っている。1/100は百分率では1%なので、「万が一」とは0.01%、つまり限りなくo%に近いが、実際に使っている実感としては確率的にはもっと大きいのではなかろうか。

 「白髪三千丈」とは、原典は李白の「秋浦歌」で、長年の憂いが重なって白髪が非常に長く伸びたことを誇張して表現したもので、日常的には「心に憂いや心配事が積もること」を例えている。「丈」とは、馬の前足から肩の高さとされているので1.2〜1.5m、つまり3000丈とは3600mから4500mとなる。かなり大袈裟であろう。

 「千差万別」は、いろいろなものにはそれぞれ相違や差異があることの例えとして使われているが、宋の時代の道原による仏書「景徳伝灯録」の禅問答に由来しているようである。これに比べ、類義の日本語の熟語「十人十色」はなんとも穏やかというか、文字通りでハッタリの微塵も感じられない。

 中国戦国時代の道家である列子由来の「千変万化」も意味こそ違えど似た表現である。「千差千別」でもよさそうだが、「千」の次に「万」というさらに大きな単位を使うことで、多いことをさらに強調する狙いがあると思われる。

 さらに「千載一遇」とは、直訳すれば「千年に一度出会うかどうかのチャンス」の意で、晋代の袁宏の著「三国名臣序賛」が出典とされている。

 「万国」「万人」「万病」「万障」というように、「万」は訓読みで「よろず」と読むように、非常に数が多いことの表現として用いられる。

「万策尽きる」の「万策」や「万事休す」の「万事」も同様の使われ方である。

 さて、英語で数に関する曖昧な数詞で、「a few —」というのがある。量では「a little—」という表現がそれに当たる。日本語では「数 —」を当てている。では、「数 —」とは具体的にいくつを指すのか。「二三の」と考える方と「五六の」と考える方がいる。これも時代とともに変遷するようである。

 1967年11月、当時の佐藤栄作首相のもと、日米首脳会談が行われ、沖縄返還のメドを両三年以内(先方のコメントではwithin a few years)につけることで合意した。2~3年以内に返還することを約束したのではなく、数年以内に返還時期を決めるという内容だった。結果的に1972年に本土返還が実現したが、やはりこの場合、「a few years」は日本側の思惑とは裏腹に「5〜6年」と解釈するほうが妥当だったのではなかろうか。

 いずれにしても、「数—」という曖昧な表現は、使う側にとっては責任を曖昧にするという意味で便利だが、両者の間に誤解や約束自体の瑕疵を生じる恐れがあることも事実である。

 ところで、我が日本語の数詞で、うんちくのあるものは如何。

 とっかかりに常用の言葉である「ろくでなし」を取り上げてみたい。

 この「ろく」は数の6ではなく、通例として「碌」の字が当てられているが、実はこれも当て字である。

 本来は「陸」である。勾配のない平らな屋根のことを「陸(ろく)屋根」というが、「陸」は土地が平らなことから、物や性格が平らで真っ直ぐなことを指す。そこから性格が真っ直ぐでないことを「陸(ろく)でなし」と言うようになったそうな。

 歌舞伎の用語が語源とされるものに、「七変化」がある。一般的に「物事がくるくる変わる」「素早く変化する」といった意味で使われる。

 もともとは歌舞伎舞踊の世界で使われている言葉で、「変化舞踊(へんげぶよう)」からの派生語である。ちなみに、「変化」を「へんか」と読むのは漢音、「へんげ」は呉音である。

 「変化舞踊」とは、いくつかの小品舞踊を組み合わせて構成されたもので、同じ踊り手が次々に扮装を変えて異なる役柄を連続して踊り分けるものを言う。

 少ないもので「三変化」、多いものだと「十二変化」まであるが、「五変化」や「七変化」で構成されるものが最も多かったため、日常用語になったようである。

 さて「八方美人」とは、誰に対しても上手に立ち回る人を指す比喩である。

 「八方」とは、東西南北とその間の45度の方位を入れたものである。

 「八方塞がり」も逃げ道のないことを表すが、「四方」より「八方」のほうがより全方位的なニュアンスが強くなる。その意味では、先の流れからすると「四面楚歌」という比喩は、古代中国の表現としては随分謙虚に思えるがいかがだろうか。

 「八面六臂」 とは、仏像などで八つの顔と六本の腕を持っていることを意味し、多才で一人で何人分もの活躍をするたとえに引用される。

 話はやや逸脱するが、奇数は日本文化にとって色々な意味でバランスがよいと思われる節がある。西洋の左右対称文化に対し、日本文化は概ね左右非対称文化といえよう。日本の城には左右対称なものは少なく、金閣寺(鹿苑寺金閣)、銀閣寺(慈照寺銀閣)も左右非対称、神社の狛犬は、口を開いている阿形と口を閉じている吽形が左右にあって、これも非対称。同様に、仁王門の阿形と吽形もしかり、庭園や書院造りも完全な非対称である。

 例外として、古代建築では五重塔は建坪に対し高さがあるため、重心のバランスから左右対称、あるいは回転対称とする必然性があった。一方、国会議事堂や迎賓館はほぼ左右対称だが、これは列強に追いつくべく、西洋建築を模倣したためと考えられる。

 その他、俳句は5-7-5、短歌は5-7-5-7-7、都々逸(どどいつ)は7-7-7-5と、奇数の句の集合体である。

 古来からの仏教建築では、舎利を納める五重塔が有名だが、その他、優美でリズム感のある薬師寺の東塔、西塔も三重塔である。

 その薬師寺の本尊である薬師三尊も、中央に薬師如来、左右に非対称の日光菩薩と月光菩薩を随え3体で構成されている。

 同じく、法隆寺の釈迦三尊も中央に釈迦如来、左右に両脇侍(きょうじ)像を配しているが、これも左右非対称である。

 実は、これは古代中国の陰陽道の影響と考えられる。

 陰陽道では、奇数が陽で偶数が陰となっている。西洋文化の影響を受けた現代の感覚からするとやや違和感がある。

 しかし音楽のリズムを例にすると、通常一拍目が強く二拍目が弱い(この逆を裏拍という)。ここから奇数が陽であると理解するに無理はない。

 つまり陽が正で陰が負と考えられ、尊いこと、あるいはめでたいことを表現するのに陽を用い、その逆を陰とした。

 もっとも、「八」を末広がりと形容したり、先に触れた双璧や六歌仙、四天王など、偶数をよしとする例外もある。

 いずれにしても、日本文化は無常や時や形の移ろい、ひいては不完全なものに美を感じる文化とも言える。

 これに対し、西洋文化は偶数文化と表現できよう。

 パリのルーブル博物館、凱旋門、シャイヨー宮、ロワール渓谷のシャンボール城、ロンドンの大英博物館、バッキンガム宮殿、ベルリンのブランデンブルク門、ウィーンのシェーンブルン宮殿、アメリカ連邦議会議事堂、ホワイトハウス、イタリア庭園等々、左右対称の建築物は枚挙にいとまがない。ちょっと古風な西洋の部屋のしつらえでも、マントルピースを中央にして、絵や写真を左右対称に飾った光景を目にすることも多いのではなかろうか。

 日本では、左右対称の古い建築物といえば京都の平等院鳳凰堂ほか数えるほどである。これは、「この世をば わが世とぞ思ふ望月の かけたることもなしと思へば」と詠んだ藤原氏一族の世界観からすれば、完全無欠、つまり欠けてはいけないという理想論の具現化したものといえよう。

 別の見方をすると、日本文化が自然界に依存、あるいは自然界と共存する文化であるのに対し、西洋文化は自然を支配する文化とも言えるようである。 

 これは、それぞれ民族の置かれた環境の違いに依拠していると考えられる。

 紀元前から西洋・中国の小麦農業は牧畜を伴い、人口増加につれ森林を伐採、開墾し、作付け面積を増やし家畜を増加させていくので、自ずと自然は破壊される。こういう生業からは、人間は自然界を「支配する」と考える文化が生まれやすいのではなかろうか。

 人が作るものは、左右対称の同じ物が幾つでも容易に作れるので、偶数が馴染みやすい。ところが、日本の縄文人の生業は、魚猟・採集、弥生時代は稲作・養蚕が主。これは、人は自然界に頼らないと生存できないので、自然の循環との共生を大切にする生業を選択した結果ではないかと考えられる。自然界を観察すると、左右対称のものはごく稀である。このような自然を崇拝する日本人の心性から、「奇数」の文化が生まれたという見方もできよう。

 閑話休題。

 デジタル=digitalの語源については、語源⑩「アナログとデジタル」を参照されたい。 

 さて、ローマ数字のⅤはアラビア数字の5だが、これは片方の掌を広げた形、Ⅹはそれを二つ上下に合わせた形で10を表現したとされている。

 12345678910
ギリシャ語mono モノdi ジtri トリtetra テトラpenta ペンタhexa ヘキサheptaヘプタocta オクタnona ノナdeca デカ
ラテン語ūnus               ウーヌスduo                  ドゥオtrēs                 トレースquattuor            クァットゥオルquīnque           クィーンクェsex                  セクスseptem           セプテムoctō                 オクトーnovem            ノウェムdecem             デケム

 化学用語では、数詞としてギリシャ語がよく使われている。

 ジメチル=dimethyl の「ジ」やトリニトロトルエン=trinitrotolueneの「トリ」、テトラサイクリン=tetracyclineの「テトラ」はその例である。

 モノラル=monaural 、モノレール=monorail、モノローグ=monologue、等の「モノ」はギリシャ語の「1」を表すmono-から派生しており、日本語では「単一」、「独」といった字が当てられている。

 ペンタゴン=pentagonは5角形の意味だが、建物の形からthe Pentagonは米国の国防総省を指す。函館の五稜郭もいわば和製pentagonである。

 最近流行りのDHA=docosahexaenoic acidはドコサヘキサエン酸と和訳されるが、hexa-=6つの二重結合を含むdocosa-=22個の炭素鎖をもつカルボン酸の意味である。

 ヘプタン=C7H16は炭素鎖の7からつけられた液体の名前である。

 また、「オクタ」はオクトパス=octopus やオクタン=octane、オクターヴ=octave(8度音程) の派生語に使われている。

 「ノナ」はnonagon=9角形などに使われるが、「ノナ」から派生した「ナノ」のほうがなじみ深い。ナノテクノロジー=nanotechnologyはナノメートル(1×10-9m)レベルの物質を扱う技術を指す。

 「デカ」はデカメートル=decameter(10メートル)の語源であるが、日本ではあまり使われない。100年をcenturyというのに対し、10年をdecadeというが、これも日本ではあまり馴染みがない。

 しかし、ボッカチョ作「デカメロン」=十日物語や、いまでは12個を意味するダース=dozenもdeca-から派生した言葉である。

 さて、次にラテン語の数詞の派生語について。

 ūnusからuni-という言葉ができ、ユニフォーム=uniformやユニーク=unique、UN=国連のユニオン=union、ユニクロ=UNIQLO等が挙げられる。

 ひとつ、唯一、単一、同一といった意味がある。

 「ウニコ」というブランドがあるが、この社名はスペイン語で、「唯一、ユニーク」を意味するunicoに由来している。磁器などでも、大量生産したものに対し、「一点もの」を意味するunicoという言葉がよく使われる。

 ちなみに、ユニクロの社名はUNIQUE CLOTHING WAREHOUSEの略だが、そうであればUNICLOのはずだが、登録の際、何かの手違いでCがQになったものの、それがかえって面白いとそのままUNIQLOの商標になったそうな。

 デュエット=duetやデュオ=duoはもちろんふたつ、ふたりの意味のduoから派生しているが、意外にもジレンマ=dilemmaもふたつの矛盾することが同時に起きている様を表している。

 このduo-以外に、2を意味するラテン語の接頭辞「bi-」の英語読みとして、「バイ」というのがある。

 バイリンガル=bilingualやバイメタル=bimetal(サーモスタットに使われている熱膨張率の異なる2枚の金属を張り合わせたもの)、またバイアスロン=biathlon(ふたつの競技を合わせたもの)、ひいてはバイシィクル=bicycle(輪=cycleをふたつ繋いだもの)も派生語である。エヴィデンスは確認できないが、個人的には、副を意味する英語の接頭辞by-、例としてside by sideやbypass等があるが、日本語では「並」「並んで」が相当し、bi-と同じ語源ではないかと思われる。

 trēsはギリシャ語のtriと似ていて、たとえば3人組のトリオ=trio、三角形=triangleやトライアスロン=triathlon(3種の競技を合わせたもの)などの派生語がある。

 quattuorは、四重奏のカルテット=quartet 、4輪駆動の車のクワトロ=quatro、英語の1/4を表すクォーター=quarter 等の語源となっている。

 quīnqueはなかなか派生語が浮かばないが、五重奏のクィンテット=quintet

はその派生語である。歯科関係の出版社でクィンテッセンス=Quintessenceがあるが、これは直訳すれば「5つの元素(要素)」だが、ギリシャ語の四大元素「空気・火・水・土」に続く、ラテン語で「第5の元素(要素)」を意味する。

 septemは7、octōは8を意味し、ともに7番目の月=September、8番目の月=October の語源だが、現在ではそれぞれ9月、10月を指す。

 一説に、ジュリアス・シーザー=Julius Caesarが自身の誕生月の7月=Julyを、そしてその後継者のアウグストゥス(オクタヴィアヌス)=Augustusの誕生月の8月=Augustをそれまでの10カ月に入れたため、2カ月ずつずれたというのがあるが、これはどうやら誤りのようである。

 現在の暦の元になっているのは、紀元前8世紀頃のロムルス暦。この暦では、1年は3月=Marchから始まる10カ月だった。これには、当時の主要産業である農作業の始まりに合わせたとの説がある。それによると、Septemberは文字通り7番目の、Octoberは8番目の月だった。しかしその後、太陽の周期に合わせて12の月があるヌマ暦が使われ、1年の始まりに1月と2月の2つの月が加わった。そのため、双方とも2つずつずれて7月→9月、8月→10月となったというのが有力である。

 10を意味するdecemの派生はギリシャ語のdecaに準ずるがこれは先に触れたので割愛する。

 数詞に関する語源は数々あり、数え上げればきりがない。

そうだったのか語源㉕   -動物にまつわる言葉 その2-

テーマの対象が思いの外広かったので、急遽2回に分けた。

今回はいわば番外編なので、整理しにくいものを雑駁ながら挙げてみよう。

その前に、何故大人になると動物から植物に関心が移る傾向が多いのか、考えてみたい。

動物は動きが比較的俊敏、あるいは確認しやすい、一方植物は反応が緩慢、あるいはわかりにくいという点では、まずはコンセンサスが得られよう。

自分のことを振り返ってみると、こちらで何か働きかけをして、即座に反応を確認、あるいはそれによる満足を得ようとするのが、子供ではないだろうか。

誤解を承知で言うならば、そういった経験を何度となく繰り返しているうちに、その後の変化に予測が働き、意外性を排除するようになるのが大人ということではなかろうか。

また、3歳にとっての1年は人生の1/3であるのに、私の例で言えば当年66歳にとっての1年は1/66である。

分母が大きい分、この分数の値、つまり変化量は小さくなる。年齢を重ねるにつれ、人間が保守的になるのは、ある意味生理的にも整合性があるのかもしれない。

逆に、歳をとっても冒険的革新的な生き方をしているのは、精神的に青年をつら抜いているとも言える。

人間保守的、あるいは保身的になったらそれはある意味死に近づいたということなのかもしれない。

閑話休題。

さて、リスは英語ではsquirrelだが、これには動詞で「ため込む、隠す」という意味がある。おそらく、リスが頬袋に木の実などをため込む様子からできた動詞だと考えられる。

ちょっと発音が似ている言葉に(やや強引か)、スキャロップ=scallop、日本語ではホタテ貝がある。

scallopはその他、波型模様、カーテンやテーブルクロスの扇型模様、そして歯科分野では歯と歯肉の境目の波型模様をも指す。ホタテ貝の貝殻の縁の形状から派生した意味だと思われる。

ホタテ貝から、話は水の中に移る。

軟体動物のタコは英語でoctopusだが、これはラテン語のocto=8とpous=足からなり、直訳は「8本足」ということになる。オクターヴやガソリンのオクタンも8が語源となっている。

「海老で鯛を釣る」とは、「わずかな手間(資本)で大きな利益を得る」意味だが、エビも高価では?と思わないだろうか。実はこの場合のエビは、伊勢エビなどではなく、餌に使う安い小エビを指す。

「鯖を読む」とは、「数をごまかす」という意味に使われる。

これは江戸時代、足が早く(=腐りやすく)大量に獲れた安価なサバを数えるのに、時間がかけられないため、適当に数えたところからできた諺である。

ついでに、「足が早い」とは。

「脚=足」は、「雨脚」「日脚」「火脚」等に使われるように、物事が時間とともに変化していく様を表す。足で移動することから時間の移動、つまり経過にも使われるようになったようである。つまり、「足が早い」とは、「新鮮な状態から腐敗するまでの時間が短い」となったのであろう。

海外に目をやると、イタリアにサルディニア(イタリア語: Sardegna)という島がある。この周辺の海では昔からイワシがよく獲れた。そのため、イワシの英語名sardine=サーディンはこの島の名に由来しているとか。

魚関連で、服地にヘリンボーン-herringboneという模様がある。V字形や長方形を縦横に連続して組合せた柄だが、これは開きにした魚の骨の形状に似ているところから、ニシン=herringの骨=boneという意味からつけられた呼び名である。

服地の話のついでに、ドスキンという生地がある。昔の軍服などに使われていた、目のつんだビロードのような光沢の厚手の織物を指す。doeskinと書くが、前回㉔で触れたdoe=雌ジカの(なめし)skin=皮のことであるが、一般的にはこの雌ジカの皮に似せて作られた厚地紡毛織物をいう。

ちなみに、moleskin=モールスキンは厚手の綿織物のことで、mole=モグラの皮のような肌触りからつけられた。個人的には、キウイフルーツの感触に似ていると思うがいかがか。

その他、動物の毛皮を使ったものではsealskinがあるが、これはオットセイやアシカの毛皮を指す。

英語のtunaは、スズキ目サバ科マグロ属のマグロやカツオを指す。ちなみに、sea chicken=シーチキンは日本のある会社の商品ブランド名であるが、マグロの食感が鶏のささみに似ていることからつけられたとされるが、まさに言い得て妙である。

話は細菌の名前に移る。

食中毒の原因菌であるサルモネラ菌=Salmonellaは、発見した細菌学者、Daniel Salmon=ダニエル・サーモンにちなんで名付けられた。

サーモンはもちろんサケ目の魚サケのことである。だから、サーモンさんは日本語では鮭さんである。

サーモンのスペルはsalmonで、-l-はサイレントで発音しない。

通常、細菌の命名には、発見者の名前に接尾語として-ellaをつけることが多い。

Salmonに-ellaをつけSalmonellaとなり、この場合は-l-はサイレントではなくなり、サルモネラと発音する。

ちなみに赤痢菌はShigellaというが、これは発見者の志賀潔のShigaに-ellaをつけた命名である。

クレブシエラ(Klebsiella pneumoniae)という肺炎の原因菌は、発見者であるドイツの細菌学者Edwin Klebs=エドウィン・クレブスの名をとった命名であるが、これも-ellaがついている。ちなみにKlebs=クレブスは、ドイツ語で悪性腫瘍を意味するが、疾病であるものの、これは発見者とは関係がないらしい。

ついでに、がんは英語でcancer というが、ドイツ語のKlebs同様、カニのことである。ギリシャ語の「カルチノウス」が語源で、これは乳がんにおいて、ちょうどカニが手足を広げたような硬いしこりを表面から触れる様を表現したものされている。

さて、カニは漢字で「蟹」と書き、甲殻類なのに「虫」がついている。

同様にヘビは漢字で蛇、カエルは蛙と書く。これらはなぜ虫編か。

実は、「虫」という字は、ヘビが鎌首をもたげた形からできた象形文字である。それゆえ、ヘビの仲間である爬虫類(ここにも虫が出てくる)の生物を表すのに、この字が使われている。つまり、うねうね、くねくねしたもの、あるいは足の多いものに爬虫類のイメージが当てられ、虫編がついている。蛙(カエル)や先に出た蛸(タコ)等もその例である。

ちなみに虹に虫編がついているのは、天を渡る龍(ヘビの仲間)のイメージからつけられたものと考えられている。

では、いわゆる昆虫の名前に使われている「虫」はというと、本来は「蟲」の字が使われていた。虫がうじゃうじゃ蠕いているイメージを表したと考えられる。それが略されて「虫」となった。

引き続き虫にまつわる話題を。

最近では、フリマと呼ばれるフリーマーケット。自由に出品できるからfree marketと思いきや、実はスペルが全く違う。正しくはflea marketである。このような誤解を生じるのは、l とrの発音を正しく区別できない日本人の残念なところである。fleaは節足動物のあのノミのことで、つまり「蚤の市」のことである。ではなぜノミなのか。

時代は遡り、フランスの第2帝政時代(1852-1870)に、パリの中心街を軍隊が行進出来るように大通りにしようと再開発が行われた。それにより、スラム街や古い商店は取り壊された。売り場を追われた商人たち(大半は中古品を売っていた)はパリの北部、 ポルト・ド・クリニャンクール(Porte de Clignancourt)で市を立てることを許可され, 1860年に初めて売店が登場した。要するに、中古品を売っていたのでノミがいるだろうということから、やがて人々はその市を marche aux puces(market of flea) 「蚤の市」と呼ぶようになったというのが名前のいわれである。

似たものついでに、バッタもんとは「正規の流通ルートで仕入れたものではないもの」あるいは偽物を指す。

この「バッタ」には多くの説があるが、説得力のあるものを幾つか紹介したい。

不況などでバタバタと倒産した商店の品物を、一括で大量に安く買う業者を「バッタ屋」といい、そこからバッタもん(物)というようになったという説、

バッタがいそうな道端で拾ってきたような物を売るからという説、場当たり(バッタ)的に入手した物を得るからという説、バッタのようにあちこちに店を移転するからという説等。それぞれさもありなんという感がする。

空を飛ぶ点では似ているセミ。意外なことにカメムシ目セミ科の昆虫。

ミンミンゼミ、ニイニイゼミとか、鳴き声から命名されているものはわかりますい。

一方アブラゼミは、羽根の感じが油紙に似ているからという説や、鳴き声が油を熱したときに撥ねる音に似ているからという説がある。

どことなく物悲しさを感じるヒグラシの鳴き声。子どもの頃、山で聞くこの鳴き声が夏休みの終わりを予感させ、一抹の寂しさを覚えた。

ヒグラシとは、日暮れ時に鳴くことから「日暮らし」と名付けられたそうである。

羽根があるついでに、嫌われ者のゴキブリについて。

明治時代までは「ゴキカブリ」と呼ばれていた。漢字では御器噛と書く。今でも関西では「ゴッカブリ」と呼ぶ地域もあるようだ。これは何にでもかぶりつくという意味で、蓋つきのお椀(=御器)をかじる虫という意味から来ている。ゴキブリの異名には「コガネムシ(=黄金虫)」というのもあり、「コガネムシは金持ちだ」という童謡の「コガネムシ」はゴキブリを指し、ゴキブリが増えることは財産家の証しという言い伝えがあったようである。

話はより上空を飛ぶ鳥に移る。

トビ職(鳶職)とは、トビのように優雅に高いところを飛び回るからついた名前ではない。彼らが持っている鳶口に由来する。鳶口とは、トビのくちばしに似た爪を先端に付けた長い棒のことで、木を引き寄せたり消火作業等に使われていた。

「獲物になる」「食い物にされる」ことを、「カモになる」「カモにする」という例えはどこからきたのか。

カモの代表格であるマガモは、形も大きく味も良く、さらに数も多かったためとても捕まえやすく、料理にはもってこいの材料だったことからこの表現が生まれたようである。

また、鴨肉は多少の癖があるため、甘みのある冬ネギと合わせると相性が良かったことから、良い話にさらに好条件がつくことを「カモがネギ背負ってくる」と言うようになったとか。

さて、鳥にやや似ているコウモリについて。

「あいつはコウモリだから」といった比喩に使われることがある。

これは、イソップ童話の「卑怯なコウモリ」からの引用である。獣一族と鳥一族の戦争で、前者が優勢のときは「私は全身に毛が生えているから獣の仲間です」と言い、後者が優勢似なると「私には羽があるから鳥の仲間です」と言って、最後に双方から卑怯者扱いされたという話から、態度のはっきりしない卑怯者を指す比喩となった。

ちなみにウィルスの自然宿主によくコウモリが挙げられるが、行動範囲が広いこと、冬に冬眠しウィルスを温存させやすいこと、温度変化の少ない不潔な環境に暮らすこと等が原因とされている。

それにしても、COVID-19の1日も早い収束を願うばかりである。

最後になぜか羊羹について(実は何を隠そう私の好物である)。

「羊羹」の「羹」は訓読みで「あつもの」と読み、とろみのある汁物を指す。中国では「羊羹」という言葉は羊の肉やゼラチンを使ったスープを示す。

日本には、鎌倉から室町時代に中国に留学した禅僧によって点心(食事と食事の間に食べる間食)の一つとしてもたらされた。しかし、禅僧は肉食が禁じられていたため、小豆や小麦粉、葛粉などの植物性の材料を使い、羊肉に見立てた料理がつくられたそうである。

そうだったのか語源㉔   -動物にまつわる言葉 その1-

今回は、昆虫も含め動物をターゲットとしてみたい。

そもそも植物に対する動物とは、と言う前に、まずは両者の共通点を確認しておきたい。

単刀直入に言うと、糖を燃焼させることにより代謝に必要なエネルギーを得ること、である。

違いは、植物はこのエネルギー源である糖を自らの代謝システムで作り出すことができるのに対し、一方の動物は、他の生物(植物、生物)を摂取し同化(吸収し、栄養とする)することで、そこから得た糖をエネルギーとする。

まずは、人間にとって馴染みのある動物の代表、イヌから始めたい。

「犬」という漢字は、耳を立てたイヌを横から見た姿を表したれっきとした象形文字である。似ているものの「大」とは全く関係がない。

犬死という言葉がある。

イヌは古来より、「家臣、家来」に意味を持っていた。

家臣は忠義のため、時として主君のために死ななくてはならなかった。

一方主君、あるいはひとかどの武士は、そう簡単には死ねない。

「ひとかどの武士は、そんな家来のような死に方はできない」という意味から、「家来のような死に方」を犬死と言うようになったそうである。たぶんにヒエラルキーの匂いがする。

このように、「イヌ」には(主君から)一段下に見た意味で使うことがある。

イヌツゲ、イヌタデ、イヌマキ、イヌビワ等、本来の植物から見て役に立たない、あるいは劣っているという意味で用いられるようである。一説には、「否(いな)」から「イヌ」に転化したとも。

次に、同様に馴染みのあるウマにまつわる言葉について。

「馬耳東風」にある馬とはいかに。

前者は、中国唐の詩人李白の「世人之を聞けば皆頭を掉(ふ)り、東風の馬耳を射るが如き有り」という詩に由来している。東風とは春風のことで、人は春風が吹けば寒い冬が去って暖かくなると思って喜ぶが、 馬は耳をなでる春風に何も感じないという意味である。ウマが本当に春風を感じないかは定かではない。

同様の意味で「馬の耳に念仏」という諺があるが、ありがたい念仏を馬に聞かせても理解できないから無意味ということだろうが、それならウマでなくてもネコやブタでも良さそうなものである。と思いきや、似たようなものに「猫に小判」「豚に真珠」というのがあった。組み合わせは、「馬に小判」でもまんざら見当違いとは言えまい。

タヌキ、キツネは、昔話や童話にもよく登場する。

これらの動物を比較対象とした時、どんなイメージが浮かぶだろうか。

双方ともイヌ科の動物だが、タヌキはお人好しで少し間がぬけている、一方のキツネは小利口で意地悪なイメージだろうか。顔の形と体つき、そして身のこなし方から来るのかもしれない(タヌキはたれ目ではないが、目の周りの模様でそう見えるだけ)。

タヌキは漢字で獣偏に里と書くが、雑食性でまさに里山といった、人間のテリトリーに近いところに棲息する。一方のキツネの語源は諸説あり、その一つは、「きつ」は鳴き声から、「ね」は接尾語的に添えられたものとされる。また、「き」は「臭」、「つ」は助詞、「ね」は「ゑぬ(犬)」が転じたもので、臭い犬の意とする説、「きつね(黄猫)」の意とする説、体が黄色いことから「きつね(黄恒)」とする説など、諸説ある。

日本の神話ではキツネは神聖なもの、イソップではキツネは狡猾なもの、といった固定概念はあるようだ。

神道では、「神使はしめ」と言ってキツネを稲荷神の使いの動物としている。このへんから、キツネは昔から特殊な能力を持っている動物として扱われている。「狐憑き」などは、このあたりと関係ありそうである。

さて、馬鹿とは「梵語のmoha =慕何(痴)、またはmahallaka =摩訶羅(無智)の転で、僧侶が隠語として用いたことによるという」と説明されている。

ただ、なぜmoha =慕何、mahallaka =摩訶羅が、バカになるのかという疑問は存在する。他にも、漢字で「破家」と書き、これは家財を破るの意で、家財を破るほどの愚かなことの意からという説である。また、中国の史書『史記』には、秦(しん)の始皇帝の死後に丞相(じょうしょう)となった宦官(かんがん)の趙高(ちょうこう)が、おのれの権勢を試すために、二世皇帝に鹿を献じて馬だと言い張り、群臣の反応を見たという話によるという説もある。

さて、やや堅苦しい故事で、「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」というのがある。「えんじゃく いずくんぞ こうこくの こころざしを しらんや」と読む。

中国前漢時代(紀元前206年~8年)の歴史家・司馬 遷(しばりょう)が編集した歴史書で、正史「二十四史」の「史記(しき)」に残っている。

「燕雀」とはツバメとスズメで庶民を指し、「鴻鵠」とはコウノトリとハクチョウのことで大鳥を象徴でしている。要するに、ある地位にいる者の気持ちや志は、庶民には理解できまいといった、これも多分にヒエラルキーの匂いのする諺である。

ある政権が任期の終焉を迎え、実績が伴わなくなると、レームダック=lame duckという表現が使われる。直訳すると「足の不自由なアヒル」であるが、役立たずの政治家や、死に体を表す。もともとは、ロンドンの株式市場で大損した人を指したらしいが、足が悪く群れについて行けず、外敵の餌となる運命のアヒルを例えたもので、「先が見えている」というニュアンスが感じられる。

身代わりになることをスケープコート=scapegoatという。

scapegoatは “the goat allowed to escape”、直訳すると「追放されたヤギ」となるが、贖罪(しょくざい)のヤギを指す。古代ユダヤでは贖罪の日にヤギに人々の罪を負わせ, 野に放ったことからできた言葉である。

似ている言葉にsacrifice=生贄(いけにえ)という言葉があるが、厳密には身代わりとは異なり、「捧げる、神聖なものとして拝する、不死にする」という意味のラテン語“sacrare”に由来している。

チキン=chickenは鶏で、特に若鶏やヒヨコを指すが、形がそれと分かれば鶏肉も指す。

ちなみに英語では、動物のオスとメスで、呼び名が異なる場合がある。

雄鶏はcock(あるいはrooster)で雌鶏はhen、クジャクもオスはpeacockでメスはpeahen、ライオンもメスライオンはlioness、牛のオスはox(あるいはbull)、メスはcowとなる。

また、有名なミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」の「ドレミの歌」の一節「Doe, a deer, a female deer」でも、雄ジカはdeer(あるいはシカの総称)で雌ジカはdoeとなっている。これが「ドレミ」の「ド」である。

bullが出たついでに、金融業界で使われる言葉に、ブル(bull)とベア(bear)というのがある。ブルは雄牛の意で、角を下から上に突き上げることから上昇相場を表し、一方のベアはクマで、爪を上から下に振り下ろすことから下落相場を表す。ちなみに、春闘で聞くベアとは「ベースアップ」の日本語独自の略語である。

日本語のワニに相当する英語には、クロコダイル= crocodileとアリゲーター=alligator、そしてガビアル(ガビエル)=gavial=がある。

クロコダイルが大型のワニ、アリゲーターはそれより小型のワニ、ガビアルは口の細長いワニを指す。さらにクロコダイルとアリゲーターの違いを言えば、鼻先がV字に尖っている、牙が顎から飛び出している、体を持ち上げて歩くのがクロコダイル、鼻先が丸みを帯びている、牙が顎の中に収まっている、そして体を引きずって歩くのがアリゲーターとなっている。だが、ワニと遭遇しパニックになっているとき、パッと見ただけでどのワニかすぐに区別できるかは疑問である。「ワニ図らんや」である。

同じく川に生息する動物にカバがいる。

カバは英語で hippopotamus だが、お恥ずかしい話、これまでずっとhypopotamusだと思い込んでいた。己の過ちを他に転嫁してはならないが、これは学生時代、解剖学で視床下部をhypothalamusと学んだことによる弊害である。hypo-は下の意、thalamusは視床を指す。potamosはギリシャ語で川の意で、川の下(中)に棲んでいるからと、勘違いしていた。実はhipposは馬で「川に棲む馬」という意味のようである。日本語でも漢字で「河馬」と書く。ちなみに、英語ではカバのことを通称hippoと呼ぶ。

ちなみに、脳に記憶に関わる「海馬」(イタリア語:hippocampus)という部分がある、hippoはウマ、campusは海の怪物を指し、つまり前がウマで後ろが魚の怪物のことで、この後半の形が似ているところから名付けられたようである。別に、海馬はタツノオトシゴ、またトド等アシカ科の動物の総称を指す場合もある。

怪物との関係は微妙であるが、dinosaur=恐竜について。

ギリシャ語の”deinos” (巨大な)と “sauros”(トカゲ、あるいは爬虫類)からの造語である。

日本語では、「とんでもなく(恐ろしく)偉大なは虫類」と命名した。 その「恐ろしく」という副詞が、「恐ろしい」という形容詞にすり替えられて、「恐竜」という言葉が生まれた。

ここの名前では、「–ザウルス」という接尾語がつく場合は、dinosaurの形容詞がついた名前と考えれば良い。

一方で、「—ドン」という接尾語の場合は、ギリシャ語のodont=歯に由来し、歯に関係しているものが多い。

イグアノドンは、「イグアナの歯」という意味で、その歯の形がイグアナのそれに似ているために命名されたという。

ちなみに翼竜のプテラノドン=ラテン pteranodonも名前にodon-が入るが、この場合は少し意味が異なる。ギリシャ語のpteron=翼と否定辞のan-、「歯」のodont-とから成っているため、プテラノドンは「翼はあるが歯はない恐竜」という意味である。ちなみに解剖学では、頭蓋骨の蝶形骨翼状突起はラテン語でProcessus Pterygoideusで、pteronと同源である。

その他、トリケラトプスなど、「—オプス」とつくものも多く存在している。こちらは、ōps =顔を意味しており、顔に特徴があるのが共通点だといえる。

トリケラトプスは、ギリシャ語のtri-=3、kéras=ケラス、ōps=オプスという3つの語から成り、「3つの角の顔」という意味である。

角質のことを「ケラチン」というのは、ケラスと同源である。

恐竜と繋がりがあるとすれば大きいところだろうか、工事現場の重機の名で、あまりに日常に溶け込みすぎて、語源が意外なものがある。

まずクレーン。英語ではcraneと書き、元々は鳥のツルのことである。確かに腕の部分がツルの首、資材をつかむ部分がツルのくちばし、長い腕がツルの首に似ている。

そしてキャタピラ。ブルドーザーなどのタイヤにあたる部分だが、日本語では無限軌道という。その意味ではタイヤも無限軌道の一つと言えなくもないが、ここで拘泥するのはやめよう。英語でcaterpillarと書き、元は毛虫、イモムシのことである。イモムシの無数の足が動くのに似ているので合点がいく。

指で長さを測るとき、親指と人差し指をコンパスのようにして広げては閉じてを繰り返す。ちなみに私の場合は17cmである。これとよく似た動きをする虫を、日本語では尺取り虫という。英語でもinchwormという。ウォームギアのwormもイモムシやミミズのことで、確かに動きは似ている。

さて、蝶は英語でバタフライ=butterflyというが、このバターとは何を意味するのか。

諸説あるが、魔女が蝶の姿になってバターやミルクを盗むという一説、また蝶の排泄物の色がバターに似ているからという説もある。

前者にはロマンを感じ、後者には現実的な観察眼を感じる。

欧米人は、とにかく百獣の王ライオンが好きらしい。

先にも触れたが、英語圏ではオスとメスで呼び方が異なり、ライオン一般とオスライオンはlion、めすはlionessである。

Leo-はネコ科の動物を指すらしい。ヒョウはleopardだが、ダ・ビンチも含め、とにかく欧米ではLeonard Leopold Leonid等、Leo-という、ライオンにちなんだ名前がとにかく多い。強さや権威の象徴といえよう。

ライオンと並んで、欧米でよく使われる名前に、ハトがある。

日本でも鳩山、鳩といった名字があるにはあるが、さほど多くはない。

が、日本のことを大和と称するように、コロンビアという名は、アメリカの別称・雅称として多用されている。これは、アメリカ大陸の発見者、クリストファー・コロンブスに由来する。語源のColomboは、イタリア語で「ハト」を意味する単語である。

その他、「コロンビア」は国名やアメリカのコロンビア特別区にも、また、スリランカの首都、そしてドラマの「刑事コロンボ」にも派生語は使われている。平和のシンボルとして名付けられたのではないだろうか。

ただ、スリランカのコロンボの場合、名称の由来はシンハラ語で「マンゴーの樹の茂る海岸」を意味する「Kola-amba-thota」がポルトガル語でのクリストファー・コロンブスの名であるコロンボに置換えられたものだという。