医療における信頼関係の崩壊

08年10月




 9月1日、任期中にまたしても首相が辞任した。
 こうも次々と短期間で首相が代わると、日本政府に対する海外の信用も当然失うだろうが、最大の問題は政府に対する国民の信用の失墜であり、とりもなおさずその最大の被害者は国民である。
 長期政権の中で勝者と敗者を明確にわけた小泉内閣、このあまりの冷徹なイメージを繕うためか、次の安倍内閣では「再チャレンジが可能な社会」をキャッチフレーズにしたが、あえなく政権放棄、続く福田内閣も後期高齢者医療制度を「長寿医療制度」と看板の文字を入れたえただけで1年もたずに降板。

 信用問題といえば、医療に対する信用も揺らいでいる。
 医療崩壊という言葉が流布して久しいが、つきつめると医療システムの崩壊というより、むしろ医療における患者と医療供給側との信頼関係の崩壊というのが実態ではなかろうか。
 もちろん、この状況を作り出した原因が、バブル崩壊後の政府の一貫した医療費抑制策であることには疑問の余地はない。
 とりわけ小泉内閣から行なわれた、いわゆる「医療(保険制度)改革」が大きく影響している。
 自助努力の名の下、診療報酬の大幅な切り下げ、窓口負担の引き上げにより、国に対する国民の信頼は大きく低下した。
 「困ったときに国は助けてくれない」?大方の国民の感覚はこうであろう。
 つまり国民の、国への信頼が崩壊したことが医療崩壊のそもそもの根源ではないだろうか。
 ところが国は、国民の権利を守るという自らの責任を放棄しながら、国民の怒りの矛先を狡猾にも医師など、身近で具体的な対象に向けさせているのである。
 その点では、自助互助をスローガンに、社会保障に対する国の責任から逃れようとした「小泉構造改革」の狙いは見事的中した。
 国が信用できない以上、自分を守るのは自分しかない。
 だから、医療においても自分を守ろうとし、そのためには医師をはじめとする医療従事者にも厳しい監視の目を光らせ、落ち度があれば徹底的に責任追及する---こういった自己防衛的姿勢がいつしか攻撃的姿勢になり、医療崩壊を招いたと考えられないだろうか。
 モンスターペイシェントなどという存在はその最たる例であろう。
 「結果がよくて当たり前、いつでもどこでも最高の医療を提供して当たり前、結果が悪ければ全て医療機関の責任」という風潮は、過剰な自己防衛姿勢から転化した攻撃的姿勢と考えられないだろうか。
 これらが医療現場で信頼関係の隙間に疑心暗鬼を生み、医師の側もヒューマニズムを最良の形で提供しにくくなっている。
 たとえば、本来患者の治療のためのカルテ記載が、医療訴訟に備える証拠作りのための記載として重視されるようになっている。
 医師が患者を前にして、患者を守るより自分を守ろうとする状況から、よりよい患者主体の医療が行なわれるはずがない
 2004年の福島県立大野病院産婦人科医逮捕のニュースは、その後分娩を扱う産科医が激減し社会問題化したことをみても、その影響は計り知れない。
 今年8月20日、この事件を受けて福島地裁が下した被告医師無罪の判決は、医療崩壊を食い止める意味で大きな成果である(もちろん患者遺族に対しては「無過失保証制度」等の救済措置を早急に講じる必要がある)。
 また、患者と医師との問題に隠れてはいるが、手薄な診療体制の中で孤軍奮闘せねばならないような医療供給体制を放置している国の責任を看過してはならない。
 現場に非現実的な多大な義務を課し、何か起これば責任は現場にあるとする国の態度には目に余るものがある。
 採血器具使い回しに関する指導、医療廃棄物の処理責任、歯科用器具滅菌の指導、補綴物維持管理、文書提供等の説明責任などがいい例である。 

 そして今、国が国民の権利を守るという責任を放棄したことにより、医療の混迷も去ることながら、多くの社会不安を生み出す素地にもなっている。
 相次いで起こる通り魔殺人事件に代表される凶悪犯罪も、この社会不安に端を発していることを否定はできまい。
 
 この医療崩壊を制度的に食い止めるには、長い間続けてきた財界主導の医療費抑制策を見直し、
*需給バランスの是正
*責任の所在の明確化
*医師側の裁量権(立場)の保証
が急務と考えられる。
 幸い、今年始め、尾辻元厚労相をして、毎年2200億円ずつ削減される社会保障費について、「社会保障費を削るのはもう限界」と言わしめたことは、国民、医療関係者にとって、まさに一筋の光明のごとくだった。
 そして9月18日の記者会見で、自民党は日医連に対し、総裁候補の最右翼と目される麻生氏が2010年度予算では社会保障費を凍結したいとの考えである旨を伝えた。
 またそれに先行して、批判の強かった後期高齢者医療制度の見直しも現実のものとなった。
 ただ折しも総裁選のまっただ中、年内の総選挙も現実味を帯びつつある今、長きにわたった「医療改革」路線を翻しての「公約」は、遠のいた支持を取りつけるための飴であることは想像に難くない。
 この不信を払拭するには、国民を守るという国の姿勢を永続的に示すこと以外にはないであろう。
      
 では一方で、医療崩壊を招いたことに対し、医療機関側に改善の余地はないだろうか。
 国民が、医師への付け届けにより、手術の結果が多少なりとも左右されると考えているとすれば、また、歯科において自費診療を薦められるのは医院の採算のためと考えているとすれば、そのような風潮を生んだことに対し、猛省が必要である。
また、かつての「知らしむべからず、寄らしむべし」の反動からか、国立病院に端を発した「患者様」という呼称も考え直す必要がないだろうか。
国語的にも不自然だが、通常「様」とは上下関係、もしくは営利的関係の下、つまり商売で用いられる言葉である。
ここにも財界主導の医療費抑制策の臭いが感じられる。
 日本の医療制度下では、医療は決して商売ではない。
 商売なら、不採算行為をする必要はなく、また商売相手を選ぶこともできる。 
 少なくとも現制度下では、我々医療に携わる者にはこれらの自由は与えられていない。「様」呼称が、医療における信頼関係の回復とは別な方向に向かってはいないかと危惧する。
 また、患者へのカルテ開示を躊躇するような「保険病名」を甘受せず、患者主体の診療が認められるよう、不合理な査定に対する再審査請求を徹底し、また協会としてもそれを推進する運動を続ける必要がある。
 さらに、当然ながら医師をはじめとする医療従事者は、よりよい医療を提供するために最新の情報や技術を入手しなくてはならない。そのための費用や時間を捻出する姿勢は常にもち続けなくてはならない。
 医療の現場が不信感に支配される前に、我々医師の側も襟を正し、謙虚な姿勢で医療を本来あるべき姿に近づける努力をしなくてはならない。
                 (群馬保険医新聞 08年10月号掲載)
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