どうなるのか、日本の歯科医療
(群馬県保険医協会歯科版08年1月掲載)




 「国は国民の健康について真剣に考えているのだろうか」
 私たち医療に携わる者は、このところ診療中にしばしばこのような疑念を抱かざるをえない。
 患者を目の前にし、歯科医として(いや、「専門的知識をもったひとりの人間として」と言った方が妥当かもしれない)こうしたいと思うことが喜々としてしにくい環境になっているのである。ボランティアとして持ち出しを覚悟で診療している場合も多々ある。
 「包括制」の名の下に、手間暇かかる処置が、現場の歯科医の知らないうちに「再診料や所定の点数に含まれる」という表現で「まるめ」られてしまう。 
 しかもあらかじめ通達があればまだいいほうで、解釈に問題が起こってからあたかも既成事実のように「---となっている」と言った表現で通達が下りることさえある。こんな曖昧な療担規則の刹那的解釈が、人間の身体にそのまま関わる診療内容を左右するということは、医療に対する冒とくではないだろうか。
 「医は仁術」とは、為政者にとってまことに都合のいい言葉である。
 「思いやり」の心がなければ、信頼関係の上に成り立つ医療は行なえない。 
 そんなこと、少なくとも医療現場の歯科医なら皆知っている。
 倫理観などというものは、一人前の社会人に国が押しつける筋合いのものではない。
 倫理観に大きく依存する制度というものは、制度として不安定であるとともに、皮肉にもその倫理観を自壊する危険性をも含んでいる。
 昨年の歯科医療関連の不祥事や保険医の自殺問題が、残念ながらこのことを如実に表している。
 かつて、「かかりつけ歯科医」初再診という「コースメニュー」を歯科医の側から患者に選択を迫るという不思議な事態があったが、「仁術の押しつけ」も同様に医療をゆがめることになりはしないか。
国は、「仁術の押しつけ」を医療費削減の道具に使ってきており、とくに歯科では奏功している。  
 たとえば、38点の再診料に築造の根幹ともいえるポストの印象まで含まれている事実を、たとえば米国の歯科医が知ったらどう思うであろう。おそらく、それが医療現場で遵守されているという事実にこそ、驚くのではあるまいか。
 でなければ、これほど低い医療費でこれまでの日本の医療レベルを維持できるはずがない。
 この手法で医療費抑制策を推進しながら、では医療費削減のために混合診療を認めるかといえば、決してそうではない。
 その理由として政府厚労省は、日常的に必要な医療は健康保険で行なえるという原則、そして国民皆保険制度の下で「差別」があってはならないという精神を遵守するためというであろう。
 保団連が混合診療に反対している根拠と奇しくも一致している。
 違いは、守るべき原則が既に形骸化しているという現実を認めているか否かである。
 現実は、医療費の抑制という財政的要因ばかりが一人歩きし、肝心の医療の内容が置き去りにされているのである。これは全くの主客逆転である。
 医療経済という分野があるように、医療が財政面と無関係に存在することはもちろんありえない
 しかし、医療支出が少なくともどのくらい必要かは、財政的要因とはまた別の角度から、つまり利用者である国民の立場からきちんと検討されなくてはならないはずである。
 でないと、私たちが危惧しているように、経済界の事情で国民の健康が左右されることが当然視され、文字通り国民不在の医療がまかり通ってしまうことになるからである。
 政府は「ない袖は振れない」というであろう。
 しかし、「本当にないのだろうか」という疑惑を抱かせる事態が、ここのところあまりに多く露呈しているではないか。
 道路特定財源しかり、防衛省予算しかり、そして存在意義のない特殊法人が官僚の天下り先としていまだに「聖域化」されている。
 日本の医療費対GDP比は約8%で、OECD30国のなかでは22位(05年)。イギリスはこの時点で19位になり日本を追い抜いていた。
 医療費の公的支出割合は日本81.7%、イギリス87.1%。ちなみに政府が「手本」とするアメリカは、GDP比15.3%と突出しているが、公的支出割合は45.1%。
 平均寿命も低く、高度医療では世界をリードするものの、平均的な国民のニーズには応えていない。
 サッチャー政権時代に医療費削減を進めたイギリスが、この時点では日本より低い位置にあったが、現在では日本と順位が逆転しているはずである。
 医療費抑制策により医療破壊が深刻化したイギリスでは、その回復のため、ブレア政権下で1.5倍の医療費の増額が決行されたが、実質的な回復にはいまだ至っていない。現在もなお、診療報酬の制限されたNHSから脱退する歯科医があとを絶たないという。
 ちなみに現在の日本の医療費の対GDP比は、奇しくもこのサッチャー時代のイギリスの値に匹敵する。
 ひとたび崩壊した医療は、その回復に膨大な時間と経費がかかることをイギリスの事実が示している。
 昨年末、政府は診療報酬の0.38%の引き上げを決定した。
 これは8年ぶりの増額改定であるとしているが、薬害肝炎訴訟の解決手法と同様、次期衆院選をにらんだアピールとの見方が強い。
 国民には医療費増額と印象づけながら、薬価の引き下げを加味した全体の改定率は-0.82%で、実質的には02年度からの4回連続のマイナス改定である。
 実に狡猾な采配である。
 小泉政権のもとで行なわれた医療費抑制策の後遺症に対して、この「増額」が何ら意味をもたないことは明白であるが、一方で本体部分をマイナスにはしていないとの言い訳にもなる。 
 国民の健康が選挙の道具になっているとすれば、国民の命もずいぶん軽くなったものである。
 国民のみならず、医療従事者の中にも逆説的な「医療費聖域論」、つまり医療費は増やせないという諦観が浸透している。
 医療の充実を求めるのは医療従事者の使命である。矛盾の傍観は許されない。
 「医療費を下げるか増税か」これはいつも国が使う常套句である。
 ところが、マスコミの中でも朝日新聞が昨年12月9日の社説で、「消費増税なしに安心は買えぬ」と題して、社会保障充実のために消費税増税は不可避としている点は看過できない。
 かつて消費税が導入されるにあたり、福祉目的税と使途が明記されたにもかかわらず、その後公約は闇に消えた。
 今回、道路特定財源は、余った分は一般財源に回すという条件で存続が決まったが、これまでの予算消化型の運用が根本的に変わらない以上、どこからを「余剰」とするのかはきわめて曖昧である。
 公共事業費、軍事費、医療費、教育費等のバランスと優先順位の再検討が早急に必要であろう。
 その点、先に引用したイギリスの1.5倍の医療費増額という勇断は注目に値する。
日本の公共事業費の対GDP比は、財政改革から6%前後まで低下しているものの、欧米諸国の1.5〜3%という数字に比べ、なお突出した割合である。面積比に至っては、欧州各国の10倍となっている。
 財界からは、景気回復がまだ不十分だから医療費を抑制し、国際競争力をつけなければならないとの声が聞かれる。
 健康不安がある国民が、はたして十分にその力を発揮し、景気を上げることができるだろうか。
 日本では、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と規定する日本国憲法第25条第1項が生存権の根拠となっている。
 一生懸命生きて働いてという基盤に、何かあったら安心して医療を受けることができるという保障は不可欠である。
 バブルが崩壊し、企業が生き延びるためにリストラという処分が当然視されるようになった頃から、基本的権利のひとつである国民の生存権に対し、事実上国が責任を放棄し、今に至っている。
 
 今、医療崩壊が危惧され、なかでも過重労働でかつ、医療訴訟等の責任が問われる小児救急体制、産科医療の問題が社会問題化している。
 しかし、歯科ではこれとは質の異なる医療崩壊が深刻化している。
 紙面の都合上医療内容には触れないが、小児科、産婦人科問題とは逆の需給バランスの崩れを生じて久しい。
 この状況は20年以上も前に野村総研が予測していたものである。政府の無計画な医療政策が現在の歯科の問題をもたらしたことは明らかである。
 さらに、06年度国民医療費において、歯科医療費は前年度に比べ700億円減少した。
「総医療費の7.7%しか占めていない歯科がなぜ総額1200億円の6割に当たる減額を被ったのか」(石井みどり議員の参議院厚生労働委員会での質問から)この質問に厚労省は納得のいく説明をいまだしていない。
 朝三暮四の改定はもううんざりだ。10年後20年後のビジョンをふまえた、国民が信頼できる改定を望む。
 今この国、そして政府に最も必要なのは、「信じられること」ではないだろうか。

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