福島の桜

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 福島県の古殿(ふるどの)に銘木の誉れ高いヤマザクラがあると聞き、出かけてみました。
 役場でその場所を尋ねたところ、残念ながら開花は5月に入ってとのこと。
 でも、白河から40Kmあまりある古殿への道は信号も少なく、また山里の景色もすばらしく、楽しいドライブでした。
 これは途中の石川というところでたまたま見つけた桜です。
 撮影していたら、地元の方々に声をかけられ、「おらが桜は見事だべ」と言わんばかり。東北の暖かさにも触れられました。  (2005.4.21撮影)

ベニツツジ

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 その名の通り、えんじのツツジです(写真では残念ながらその色合いが出ていません)。
 花びらはかなり大きく存在感があるので、通る人の目を引きます。
 毎年ハナミズキの花が咲きそろう頃、それに合わせるように咲きます。
                       (歯科医院前にて)

わが家の庭先

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 4/29の庭先の様子です。
 これから1か月くらいが緑が最も美しい季節です。
 玄関のすぐ左の株立ちの木はヤマボウシ。初夏に星形の白い花を一斉に咲かせ、緑とのコントラストが見事です。
 その左奥が赤いハナミズキ、玄関の右隣は白いハナミズキ、その前の緑はトネリコです。
 ちなみにアメリカハナミズキとヤマボウシは同じ仲間です。
 2階のベランダでは、バラのつぼみが膨らんでいます。
 次回は咲きそろったバラたちをご紹介する予定です

乾杯

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3月、別れの季節です。
私が非常勤講師をしている歯科衛生専門学校の卒業式に飾られていた花束です。
第一期生だけに思い入れもひとしおです。
 彼女たちの前途に乾杯!        2005.3月

賞梅

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 専門学校へ講義に行く途中にある梅林です。
 田園の風景を楽しみながらの約1時間の通勤です。
 梅は桜に比べ、開花時期が長く、楽しみ方も3つあるそうな。
 ちらほらと咲き始めの「探梅」、盛りの「賞梅」、そして終わりを惜しむ「送梅」。
 今年は例年になく桜の開花も遅いとか。

モーツァルト 12 -最後のモーツァルト-

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今年もはや師走、奇しくもこの連載も12回で最後を迎えました。
最後にご紹介する曲を選び出すにつけ、悩んだ挙げ句、レクイエム K.626を取り上げることにしました。
12月は、主の誕生を祝福するクリスマスの月なので、レクイエム=鎮魂歌は場違いの感があるかもしれませんが、こじつければ全く根拠がないわけではありません。
K.626は、(ベートーヴェンの第9が12月に演奏されるのと同じ意味で)モーツァルトの作品中最後の番号がつけられていること、またこの曲の依頼主自ら指揮をした初演が1793年12月14日であること、そして何よりもその2年前の1791年12月7日の夜かもしくは翌朝、モーツァルトのなきがらが共同墓穴に埋葬されていることなどがその根拠といえなくもありません。
レクイエムは通常、「鎮魂ミサ曲」と和訳されていますが、本来は「レクイエム・エテルナム・ドーナ・エイス・ドミネ」の略で、語呂よく意訳すると、「主よ、彼らに永遠の安息を与えたまえ」となります。
死者のための安息を目的とする音楽は、生けるものにも安息を与えてくれるはずです。この曲は依頼があって書かれた作品であるにもかかわらず、死を予感したモーツァルト自身への鎮魂の意味があったのではないか、というまことしやかな一説まで存在しています。
ところが私自身、世俗的な性(さが)がそうさせるのかもしれませんが、この曲を聴いて魂が鎮まるという思いをしたことがほとんどありません。
むしろ後半のごく一部を除いて、生命の生々しさ、あるいは生きる厳しさと苦しみといったものを感じてしまいます。そして時には、修羅を連想することさえあります。
さて、この曲から映画「アマデウス」の最後の場面を思い浮かべる方は少なくないと思います。あの映画は、全場面を通じてモーツァルトの曲を流し続けていますが、それぞれの場面に対し、音楽は心憎いほど効果的な使い方をされています。
たとえば冒頭の、サリエリが自殺を図り、雪の降りしきる中を担架で運ばれる場面では、交響曲25番の第1楽章の冒頭が引用され、事件を予感させます。また、里帰りをした妻コンスタンツェを迎えに行ったモーツァルトに彼女の母が罵声を浴びせるところでは、まくしたてる母親の口元をズームアップしながら、オペラ「魔笛」の夜の女王のアリアに移行するという見事な演出を見せてくれます。
レクイエムが流れるのは、モーツァルトの死期が近いことを予感させるあたりからです。里帰りをしたコンスタンツェがモーツァルトの容態が悪化したことを知り、4頭建て馬車で家路を急ぐ場面では、夕闇にシルエットで浮かび上がった馬車にレクイエムが流れます。その頃モーツァルトの家では、ベッドの上でモーツァルトがレクイエムの「コンフターティス(呪われし者)」の旋律を口述するのを、サリエリが必死に譜面に写す作業をしていました。この場面はかなりスリルがあります。
そして、コンスタンツェが到着するやいなや、モーツァルトは帰らぬ人になります。
モーツァルト縁(ゆかり)の人々が見守る中、簡素な葬儀が執り行われ、やがてモーツァルトの遺骸はひとり共同墓穴に運ばれ、そのまま「物」のように埋められます。
この間流れるのは、レクイエムの「ラクリモーザ(涙の日)」という、この上なく美しい曲です。ちなみに、それに続く「ドミネ・イエス(主イエス・キリスト)」と「ホスティアス(いけにえと祈りを)」でも、透き通るように美しい弦の旋律が流れます。
この映画では、サリエリ扮する「黒い服を着た男」が、金銭感覚に疎い貧困状態のモーツァルトに、高額な報酬をえさに、過労を強いるべくレクイエムの作曲を依頼する、そして、この過労がもとで、モーツァルトの病状が悪化し死に至るという、いわば間接的な計画殺人の設定になっています。いかにも小説然としていますが、事実はちょっと違っていたようです。
モーツァルトにレクイエムを依頼したのは、フランツ・ヴァルゼック・フォン・シュトゥパハ伯爵という人物で、それは20歳で亡くなった妻の追悼ミサとしての依頼でした。モーツァルトの死の年、1791年のことでした。
この依頼主は、他人に作曲を依頼してはその楽譜を自分で写筆し、自作として私的なコンサートで発表するという、風変わりな趣味の持ち主でした。レクイエムの場合も例に違わず、そのためモーツァルトを訪ねるに際しては名前を伏せ、「灰色の服をまとった痩せた背の高い男」に依頼の書面を持たせたのでした。
映画が事実に同じなのは、この作曲がモーツァルトの死の前日まで続けられたということです。
未完となったこの曲は、その後宮廷楽長やモーツァルトの弟子、ジュースマイヤー(筆をとれなくなったモーツァルトの代筆をし、師の最期をみとったとされています)をはじめ、多くの作曲家によって加筆されています。したがって、モーツァルトの代表作であるレクイエムは、もし彼がこの曲を完成させていたならば、私たちが現在耳にすることができるレクイエムとはずいぶん様相を異にするものになっていたことでしょう。
こんなエピソードも、12月に聴くレクイエムをさらに感慨深いものにしてくれることでしょう。
さて、12回にわたって連載させていただいた独断と偏見に満ちたモーツァルト評も、このへんで最終楽章の幕を下ろしたいと思います。音楽に造詣の深い方々にとっては単なる紙面の無駄づかいではなかったかと危惧し、連載という過分の任を承諾したことを今さらながら恥ずかしく思います。たとえおひと方でもモーツァルトへのアクセスの参考にしていただけたなら、これ以上の喜びはありません。
長々とおつき合いいただき、ありがとうございました。
これにて駄稿を「はねたい」と思います。
   (1995年群馬保険医新聞12月号に掲載したものに加筆)

モーツァルト その10 -戯れと粋(2)-

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 時すでに霜月、庭のハナミズキの梢にかろうじて残った葉が、やがて芝生の上に落ち、霜をまとう季節となりました。
 この季節は黄昏時が長く、戸外で過ごすには寒く、また暗すぎます。したがって、読書や音楽鑑賞にはもってこいの季節ともいえます。
 そういえば一説に、ヨーロッパ文化はこの長い黄昏時が育んだともいわれています。
 そのヨーロッパ文化において、ユーモアとかエスプリといったものは人間らしさの根源的要素として、大変重要な扱われ方をしています。
 さて、本題の「たわむれと粋」とはつまり、ユーモアの精神に他ならないわけですが、今回は後者の「粋」な曲を取り上げてみたいと思います。
 グラスハーモニカという楽器をご存じでしょうか。
 共鳴箱の上にグラスを横一列に並べ、その中に入れる水の量を加減しながら、水で濡らした指でグラスの縁をこすって音を出すものですから、楽器というよりいわば原始的な音遊びです。
 ちなみに、やや大きめで薄手のワイングラスでやってみると、なかなか神秘的な音がします。
 18世紀中頃、イギリスでポックリッチという人物が、「エンジェリック・オルガン(天使のオルガン)」という楽器を考案し、これが一世を風靡し、グラスハーモニカの原型となりました。
 その後、ロンドンに外交官として滞在していたベンジャミン・フランクリンが、この原始的な楽器の発音原理を応用し、鍵盤楽器のように演奏できるメカニックな楽器を発明しました。
 この楽器の魅力についてかのゲーテは、
「世界の深奥の生命を聴くようだ」と評しています。
 そしてご多分に漏れず、この楽器のために曲を作る作曲家が数多く出ました。
 しかし、楽器が壊れやすいこと、そして演奏者に過度の精神的負担がかかるとの風評のため、そして何よりも大会場での演奏会が実現するようになった結果、サロン向きな(音量の小さい)この楽器は、19世紀前半には演奏会場から全く姿を消してしまいました。
 いかにも、貴族社会の象徴的な楽器という気がします。
 そういえば、モーツァルトをはじめとする作曲家たちの多くには貴族のパトロンがついていたり、また作曲の依頼主はほとんどが貴族だったという状況からしても、この頃の音楽の誕生にとって貴族社会は決定的な要素だったことが理解できます。
 さて、私たちの学生時代には、学生にとって民主主義社会こそが全ての基本であり、貴族社会のような専制的封建的な社会は悪しき象徴、という暗黙の通念がありました(アンシャン・レジームに反発するのは、いつの世も、学生の政治思想の出発点になるようです)。
 しかし皮肉なことに、この憎むべき貴族社会がなければ我が愛すべきモーツァルトやバッハなどのすばらしい音楽を聴くことはできなかったともいえます。
 ちなみに、1791年にモーツァルトはこの世を去っていますが、パリの民衆がバスチーユの牢獄を襲撃したのは2年前の1789年のことです。革命後、フランスの混乱は約10年間続きましたから、モーツァルトは生まれ変わったフランスを知る由もなかったわけですが、彼が革命をどうみていたのか、非常に興味あるところです。
 話を戻しましょう。
 モーツァルトは、1791年5月にこの楽器の名手としてウィーンを訪れた盲目の少女、マリアンヌ・キルヒゲスナー(当時19歳)のために五重奏曲と独奏曲を書きました。
 演奏会は6月10日に開かれ、8月13日のウィーン新聞には次のような批評が掲載されました。
 「・・・それから、音楽通なら誰もが次のように確信するようなハーモニカ(グラスハーモニカ)のための小品が演奏された。すなわち、ハーモニカはあらゆる楽器の中で最も高貴な楽器でありメランコリックで悲哀を帯びた感情よりも、むしろ喜ばしく、おだやかで、そして崇高な感情を呼び起こす楽器なのである。」
 モーツァルトはフランクリンのタイプ、つまり鍵盤楽器のように演奏できるグラスハーモニカのために曲を作っていますが、この楽器は現存していないため、現在聴くことができるのは、残念ながらポックリッチのタイプで演奏されたもののみです。
 したがって演奏が難しく、現在の完成度の高い楽器の演奏を聴き慣れている私たちの耳には、どうしても演奏が稚拙に響くのは致し方ないことでしょう。
 それはともかく、「グラスハーモニカのためのアダージョとロンド ハ短調/ハ長調 K.617」は最晩年に作曲された曲の中でも傑作のひとつに挙げられています。グラスハーモニカの神秘的、そして天国的な響きもさることながら、フルートをはじめとするその他の楽器の旋律も大変魅力的な仕上がりをみせています。
 この曲を聴きながら、しばし遠く浮き世から離れた世界に思いを馳せるというのも、なんと「粋」なひとときの過ごし方ではないでしょうか。
  (写真はベンジャミン・フランクリンタイプのグラスハーモニカ)
      (1995年群馬県保険医新聞11月号に掲載した原稿をもとに加筆)